真鍮の鍵を先に回す

豪雨の夜、排水機場で真鍮の鍵が宮路沙耶へ差し出された。

「水位はまだ余裕だ。放流はあと十分待て」

町長の台詞も、鍵に結ばれた青い紐も、前の人生と同じだった。

治水技師の沙耶は命令に従った。七分後、上流の古い橋脚に流木が詰まり、川が一気に越水。下校中のスクールバスが橋ごと流され、弟を含む十九人が帰らなかった。

町長は「想定外の集中豪雨」と会見した。実際は、下流の観光船会社へ配慮して放流を遅らせたのだ。十九の机に花が置かれた朝を、沙耶は一日も忘れなかった。沙耶の警告記録は削除されていた。

二度目の豪雨。

沙耶は真鍮の鍵を受け取ると、待たずに非常放流盤へ差し込んだ。

「今、開けます」

「命令違反だ! 観光船が傷つくぞ!」

「十九人より高い船はありません」

町長が止める前に、鍵を右へ回す。水門が低い唸りを上げ、貯水路の水が安全な遊水地へ流れ始めた。

同時に沙耶は学校へ直通し、スクールバスを橋の手前で停止させる。

『あと二分で着きますけど』

「一メートルも進まないで。弟にも窓から顔を出さないよう伝えて」

前の人生と同じ運転手の声が、今度は「了解」と返した。

町長は鍵を奪おうとした。沙耶は放流記録を全町民へ自動送信し、操作盤の透明蓋を施錠する。

その時、上流から大木が流れてきた。

橋脚へ衝突し、詰まっていた流木ごと橋の中央部を押し流す。濁流が、ほんの数十秒前までバスが通るはずだった場所を呑み込んだ。

だが水位は放流によって下がり、氾濫は堤防内に収まる。スクールバスは橋の手前でヘッドライトを点けたまま止まっていた。

午後六時三十一分。前の人生では保護者連絡網へ《安否不明》が十九件並んだ時刻。

沙耶の端末が鳴る。

《スクールバス乗員十九名、全員無事》

《非常放流による住宅浸水なし》

続いて弟から写真が届いた。車内で十九人が青い紐と同じ色の傘を掲げている。

添えられた文は、たった一行。

《お姉ちゃん、家で夕飯待ってて》

沙耶は真鍮の鍵を握ったまま、初めて帰宅後を想像した。