笛が鳴っても飛び込まない
「笛が鳴ったら、全員同時に飛び込め」
海軍学院の水泳試験。教官が銀の笛を口元へ上げる。海里の足下では、港の試験水路が黒くうねっていた。
前の人生の彼は笛に従って飛び込んだ。直後、整備中の排水門が開き、受験生三人が吸い込まれた。海里だけ助かったことで、命令を無視して仲間を置き去りにしたと濡れ衣を着せられた。
港湾作業員になってから分かった。試験前、排水門が閉じていれば監視塔の旗は青。今は赤い。教官はそれを見ながら、予定どおり試験を始めたのだ。
銀の笛が鳴る。
鋭い音。前と同じ。
隣の受験生たちが膝を曲げる。
前の海里も飛んだ。
今度は動かず、両腕で左右の二人を止めた。
「飛び込め!」
教官の怒声。
海里は以前とは違う返答をする。
「排水門が閉じるまで拒否します」
「命令違反で失格だ!」
「赤旗です」
海里が監視塔を指す。全員の視線が上がる。風にはためく旗は、疑いようもなく赤。
その瞬間、水路の底から低い振動が響いた。排水門が開き始める。水面が中央へ落ち込み、巨大な渦が生まれた。もし飛び込んでいれば、前と同じ事故になっていた。
教官が逃げようとする。
海里は笛を奪い、長く三回吹いた。港の緊急停止信号だ。未来の現場で毎日使った音。機関室の作業員が反応し、門は半開きで止まる。
「誰にその信号を教わった」
学院長が桟橋を走ってくる。
「働いて覚えました。まだ、ここでは働いていませんが」
答えの後半は波音に隠れた。
学院長は赤旗と教官を見比べ、警備兵へ顎を引く。機関室からは「試験開始の強制命令を受けた」と証言が届く。前の人生では海里を囲んだ兵が、今度は教官を連行した。受験生たちは一人も水へ落ちていない。
渦が完全に消えたのを確認してから、水路脇の判定灯が赤から緑へ変わる。
【危険察知】【指揮判断】【救命行動】
三つの表示の下に、予定になかった結果が点灯した。
【航海科首席合格】
そして学院長は笛を海里へ返し、初めて違う命令を下した。
「候補生。次は君が、開始を決めろ」