翻訳されなかった三人目

医療用画像処理技術の国際出願会議で、樋渡真由は翻訳会社の進行担当だった。日本語の原出願には発明者が三人いる。主任研究員、大学教授、そして小さなソフト会社の開発者・野伏だ。

ところが海外提出用の英文明細書では、発明者が二人に減っていた。元請けは、野伏が権利を譲渡したため記載不要だと説明した。

真由は翻訳指示書を確認した。初版には「Inventor 3: Nobushi」とある。午後六時二十二分、元請け知財部の指示でその行だけ削除されていた。削除理由は「契約処理済」。

証拠として出された譲渡契約書には野伏の電子署名があった。だが署名証明書の名義は、元請けの知財部長。野伏本人の証明書ではない。

知財部長は、代理署名の権限を得ていたと言った。

真由は委任状の英訳も担当していた。委任の範囲は「出願手続の連絡」であって、権利譲渡ではない。しかも委任状の日付は、譲渡契約の三日後だった。

さらに国際出願の願書には「発明者数3」と自動入力されたままになっている。名前だけ二人へ減らしたため、件数の数字が合わない。

真由の上司は、翻訳会社が顧客の法的判断へ口を出すなと制した。納期はその日の午後九時。遅れれば優先権を失う可能性もある。

真由は送信ボタンの前で手を止めた。

「翻訳は名前を別の言語へ移す仕事です。存在しないことにする仕事ではありません」

大学教授がオンライン会議越しに、野伏へ確認するまで提出しないと言った。知財部長の署名用端末も閉じられた。

真由は野伏本人へその場で電話をつないだ。野伏は、元請けから「翻訳上の都合で一時的に名前を外す」と説明されただけで、権利譲渡には同意していないと答えた。知財部長は通話を正式確認とは認めないと言ったが、教授が録音保存と書面回答を求め、提出期限より確認を優先した。

願書の「3」という一桁が、翻訳されなかった三人目を会議室へ呼び戻し、国際出願の決裁を止めた。