老犬の鼻と鯛茶漬け

 夜食処「凪」の入口には、老犬のばんがいる。

 黒かった毛はすっかり灰色になり、耳も遠い。客が来ても眠ったままだが、匂いを知っている人には、鼻先だけをゆっくり上げる。

 間宮青葉は、ばんの前にしゃがんだ。

「私のこと、分かる?」

 ばんは目を開けず、少し鼻を動かしただけだった。

「寝てるよ」

 店主の伊佐が言う。

「うちの犬も、最近こうなんです」

 青葉は東京で働き始めて三年になる。実家には十六歳の雑種犬、ハルがいる。母が送ってくる動画では、名前を呼んでも振り向かず、玄関の音にも起きない。

 帰省を延ばしているうちに、自分を忘れてしまったのではないか。そう思うと怖く、ますます帰れなくなった。

「鯛茶漬けでいい?」

 伊佐は胡麻だれを絡めた鯛を、ごはんの上へ並べた。細い海苔と山葵を添え、熱い出汁を急須で注ぐ。

 白い身の縁がふわりと色を変え、胡麻と三つ葉の香りが湯気に混じった。

「最初はそのまま食べな」

 青葉は一切れを口へ運んだ。鯛の弾力と甘い胡麻だれが、ごはんを噛むほどなじむ。半分食べてから出汁をかけると、味がほどけ、夜遅い胃へやさしく収まった。

「犬って、飼い主を忘れますか」

「顔や声は曖昧になるかもな」

「じゃあ、帰っても分からないかもしれない」

「匂いは長く覚えてる」

 伊佐はばんの鼻先へ、自分の手を差し出した。ばんは目を閉じたまま、尻尾を一度だけ床へ打った。

「起きなくても?」

「起きるのが面倒なだけで、分かってることはある」

 青葉は鞄から古い毛糸の手袋を出した。実家にいた頃、散歩で使っていたものだ。ばんのそばへ置くと、犬はゆっくり鼻を寄せ、ひと息吸った。そして前足の上へ顎を戻した。

「反応、薄いですね」

「年寄りは愛想を節約するんだ」

 青葉は笑い、母へ週末の新幹線を取ったと送った。続けて、手袋は洗わず持って帰る、と書く。

 食べ終えた丼には、出汁と胡麻が少し残っていた。伊佐が熱い茶を足してくれ、青葉は最後まで飲んだ。

 店を出るとき、ばんの尻尾がもう一度、床をとん、と叩いた。

 青葉は振り返らず、手袋を胸元へ抱えた。コートの内側には鯛と三つ葉の香りが残り、それが故郷まで続く細い道のように思えた。