聖水樽の留守番
織部律の聖水樽は、祈らなくても朝になると満ちている。
丘の泉から引いた水へ、夜明けの光、銀葉の露、清め塩を自動で一滴ずつ加える。樽の周囲に刻んだ祈文が回転し、濁りや呪気だけを沈める。小瓶は村の診療所、旅籠、墓守小屋へ配送され、使用料は週末に律の帳簿へ入る。
大聖堂で清水係だった頃、白い祭服は樽を運ぶ肩だけ薄くなり、裾には蝋と泥が重なっていた。祝祭の前日は千本を手で詰め、鐘が鳴るたび『追加百本』と呼び戻された。辞めた今も、祈話板には『儀式変更』『至急補充』が未読で光っている。
週末の朝、帳簿に淡い輪が浮かんだ。
《聖水使用料、入金済み。次週分の樽も充填中》
質素な暮らしなら、これで十分だった。律は聖水で名声を得たいのではない。鐘が鳴っても走らなくてよい朝が欲しかった。
その鐘が、祈話板の中で激しく鳴った。
『午後の大祓いに王族が参列する。予定の三倍を用意せよ。至急戻れ』
元祭具長の声だった。
「樽なら共同倉庫にあります」
『王族用はお前が直に祈りを込める決まりだ』
「その決まりは、私が辞める前に自動祈文へ改めました」
『顔を立てろと言っている』
律は満ちていく樽を見た。水は身分を選ばない。
「顔のために休みを潰す仕事は、もうしません。必要な人へ同じ瓶を渡してください」
祈話板から鐘の部品を外すと、丘に本物の鳥の声が戻った。
大聖堂では、水を清める者ほど汚れた仕事を引き受けた。樽を洗い、床を拭き、余った瓶を数え、それでも祭壇に名は出ない。律は名誉が欲しかったわけではない。ただ、祈りを理由に休息を奪われるのが嫌だった。自動祈文を作ると、《心がこもらない》と批判されたが、村の診療所は効き目に違いがないと証明した。心とは、誰かが疲れ果てるまで立つ姿ではない。必要な水が必要な場所へ届く仕組みにも宿る。
律は聖水ではなく普通の井戸水で生地をこね、朝のパンを窯へ入れた。焼けるまでのあいだ、果樹の下へ椅子を運び、鐘のない静けさに目を閉じた。