背番号を売らない
青い背番号札が、代理人契約書の上に置かれた。
「君の未来は、僕に任せてくれ」
スポーツ代理人の鳴海征司は、前の人生と同じ頼もしげな声で言った。
十八歳のサッカー選手、成瀬碧人はその言葉を信じた。契約には移籍交渉の全権委任が含まれていた。鳴海は本人に知らせず、最も高い手数料を払う海外クラブへ碧人を売った。
移籍先で試合には出られず、故障しても治療を認められない。三年後に契約を切られた時、鳴海は別の新人の隣で笑っていた。
引退会見のフラッシュが弾けた次の瞬間、碧人は古巣の応接室に戻っていた。
同じ背番号札。同じ炭酸水。同じ、十八歳の傷一つない膝。
鳴海が金色のペンを差し出す。
「細かい交渉は大人に任せればいい。君はボールだけ蹴っていればいいんだ」
前回は、それが優しさに聞こえた。
「任せません」
碧人は契約書を押し返した。
鳴海の眉が動く。
「代理人なしでは海外移籍なんてできないぞ」
「移籍するとは言っていません」
「もう先方は背番号まで用意している!」
部屋にいたクラブ職員が顔を上げた。
契約前なのに、なぜ先方が背番号を用意しているのか。
碧人は机上の青い札を裏返した。そこには古巣の番号ではなく、海外クラブの紋章と仮登録コードが印刷されている。前の人生では記念品だと思い、持ち帰りもしなかった。
クラブ職員がコードを移籍管理端末へ入力した。
《選手同意済み》
《代理署名者:鳴海征司》
《仲介報酬:移籍金の三十五%》
碧人の署名欄には、練習参加申込書から切り取られた電子筆跡が貼られていた。
鳴海が札を奪う。
「これは交渉を早めるための仮処理だ。本人が後から承認すれば――」
「しません」
碧人は金色のペンを鳴海の前へ戻した。
クラブ法務担当が扉を閉める。
「無断代理と署名偽造を確認しました。リーグへ通報します」
前の人生では午後五時、碧人の選手アプリから古巣の背番号が消えた。
時計が五時を示す。
アプリが更新された。
《無断移籍申請を却下》
《成瀬碧人との育成契約を三年間延長》
《背番号10――登録継続》
青い札を握る手は、もう誰にも売られていなかった。