自動返信は恋を知らない
十八時。牧瀬陸斗の社内アカウントが消えた。
九条緒里は、その一分後にチャットを送った。
〈裏口で待ってる。昨日のこと、ちゃんと謝りたい〉
送信済みの印だけで、既読はつかない。
陸斗は今日付で退職した。引き継ぎも送別会もなく、机だけが午後には空になっていた。昨夜、緒里が「仕事から逃げる人とは付き合えない」と言った翌朝のことだ。彼が辞めた理由を、彼女は知らない。
掌には、陸斗の入館証がある。ストラップには小さなコーヒー豆のシール。秘密の社内恋愛だった二人が、昼休みに待ち合わせる合図として貼ったものだ。豆が上なら屋上、下なら裏口。今日は下向きになっている。
十八時三分。未読。
裏口のガラス越しに、夕方の道路が見える。陸斗はいない。緒里は、シールの向きを偶然だと思い直した。
十八時五分、警備員が声をかける。
「そのカード、返却処理しますよ。牧瀬さん、さっきまで外で待ってましたけど」
「いつまで?」
「六時ちょうど。アカウントが切れたら、あなたに連絡できないって」
緒里は携帯を見る。自分が送ったのは六時一分だった。
十八時七分。社内メールの配信遅延通知が届く。
〈牧瀬陸斗は本日付で退職しました。このアカウントはメッセージを受信できません〉
拒絶ではなかった。届く場所が、先に消えていた。
通知の下に、退職者が設定した自動返信が続く。
〈九条さんへ。辞めるのは逃げるためじゃない。告発資料を出した以上、残れない。裏口で十分待つ。来なければ、あなたを巻き込まないため、私用連絡先も残さない〉
設定時刻は十七時五十分。会社の審査を通り、十八時八分に届いた。
緒里は裏口を押し開けた。道路の先にバス停がある。発車したばかりのバスの後窓に、陸斗らしい影が見えた。
走れば次の信号で追いつける。運転手へ合図すれば、停留所の手前で陸斗がこちらを見るかもしれない。
警備員が入館証の返却箱を開けて待っている。
緒里はコーヒー豆のシールを下向きのまま撫でた。昨夜の言葉は謝れても、彼が一人で告発を決めたことへの怖さは消えない。
十八時十分。彼女は入館証を返却箱へ入れ、蓋を閉じた。