落とし物は百二十ページ
朝の電車を降りたところで、環は原稿の入ったクリアファイルがないことに気づいた。
百二十ページ。今週末に入稿する同人小説の全ページを、最後の確認のため印刷したものだった。表紙には大きくペンネーム「遠浅」と書いてある。
駅へ戻る時間はなく、遺失物窓口へ電話してから出社した。誰かに読まれる想像だけで胃が痛む。恋愛場面には赤字で修正が入り、余白には感情の流れまで書き込んである。会社では、休日に何をしているか聞かれても「家で休んでいます」と答えてきた。原稿を失くした悲しさより、遠浅が環だと知られる怖さのほうが大きいことが、さらに情けなかった。
昼過ぎ、総務から内線が入った。
「清掃スタッフの方が、環さんの落とし物だと」
応接スペースへ行くと、いつも朝のフロアを掃除している女性が、封筒を抱えて待っていた。
「電車で前に座ってたでしょう。社員証が一緒に落ちたから分かったの」
環は封筒を受け取った。口はテープで閉じられている。
「中、見ましたか」
責めるような声になった。
女性は少し考え、鞄から一冊の本を出した。『海が眠るまで』。遠浅名義の、二年前の本だった。
「表紙で分かった。娘が読んでいて、私にも貸してくれたから。最初は若い人の本だと思っていたけど、夜の海の場面が好きでね」
環の喉が詰まる。
「会社の人に言いますか」
「落とし物を返すのに、中身を言う必要ある?」
女性は封筒を指した。
「でも、一ページだけ見えた。あの二人、まだ一緒にいるのね」
それはシリーズの登場人物だった。環は小さく頷く。
「今度で最後です」
「そう。娘が喜ぶ」
清掃スタッフは仕事へ戻った。環は封筒のテープを剥がす。ページは順番どおりで、折れた角には小さな紙が挟まれ、擦れないよう保護されていた。
入稿後、環は完成した本を一冊、封筒に入れた。宛名には女性の名前だけを書く。差出人欄で迷い、本名と遠浅を並べた。
翌朝、清掃用具室の棚へ封筒を置く。女性はまだ来ていない。
隠すことと、渡す相手を選ぶことは違う。
環は封筒の上に《拾ってくださった方へ》と付箋を貼り、百二十ページの続きをそこへ残した。