薄荷畑の石鹸

 志摩崎郁乃は、化粧品会社の宣伝部にいた。

「自然の癒やし」「本来の自分」「深呼吸したくなる香り」。

 そうした言葉を毎日考え、誰かへ届けていたのに、郁乃自身は香りの強い会議室で息を浅くしていた。

 山麓の古民家へ移った春、庭は薄荷に覆われていた。

 踏むたび爽やかな匂いが立つが、放っておけば畑まで広がる。郁乃は根から抜こうとした。

 近所で石鹸を作る女性が、籠を持って止める。

「抜くなら、使ってからにしよう」

 二人で葉を摘み、古い台所で湯へ浸した。

 湯気が立つと、広告の言葉より鋭く、青い香りが鼻へ入った。

「癒やされますね」

 郁乃が反射で言うと、女性は笑った。

「これは目が覚める匂い。癒やしは人によるよ」

 油と苛性ソーダを混ぜ、薄荷の浸出液を加える。

 木べらで同じ方向へゆっくり混ぜ続ける。郁乃は途中で腕が疲れ、早く固める方法を訊いた。

「待つしかない」

「どれくらい」

「混ぜるのは今日。使えるのは一か月後」

 商品企画なら長すぎる工程だった。

 型へ流した石鹸は、数日後に切り分けてもまだ柔らかい。

 棚へ並べ、風を通す。郁乃は毎朝一つずつ返した。

 薄荷畑の草を刈り、古民家の洗面台へ棚を作り、乾くのを待つあいだに季節が進んだ。

 一か月後、最初の石鹸で手を洗った。

 泡は市販品ほど豊かではない。形も角ごとに違う。けれど湯で温まると、薄荷の香りが掌から静かに立った。

 郁乃は深く息を吸い、今度はそれを言葉へしなかった。

 余った石鹸を近所へ配ると、山仕事の男性は「泥がよく落ちる」と言い、子どもは「朝の匂い」と言った。誰も「癒やし」とは言わない。

 その違いが嬉しかった。

 秋、薄荷畑は少し小さくなり、代わりに大根と葱が育った。

 郁乃は土のついた手を自作の石鹸で洗い、土間のストーブへ戻る。

 鍋からは根菜の甘い湯気、洗面所からは薄荷の青い香り。

 郁乃はその香りを、もう商品名にしなかった。

 誰かへ売るためでなく、自分の暮らしから立ち上がった匂いが、古い家の柱へゆっくり染み込んでいった。