表札を持ち帰らない
玄関の表札は、父が外そうとしても動かなかった。
木の板に彫られた「森戸」の二文字は雨で黒ずみ、ねじの頭には錆が詰まっている。家の引き渡しは翌朝。深雪は工具箱から細いドライバーを選んだ。
「傷つけるなよ」
父が脚立の下から言った。
「もう処分するんでしょう」
「お前が持っていくんだ」
深雪は手を止めた。
「聞いてない」
「家の名前だぞ。捨てるものじゃない」
父は、表札を深雪の新しい部屋の玄関に掛ければいいと言った。そこは賃貸で、表札を出す習慣もない。何より深雪は、玄関に家族全員の姓を掲げて暮らすつもりがなかった。
「持っていかないよ」
「一人娘だろう」
「だからって、家の続きをするわけじゃない」
父は脚立を押さえる手に力を入れた。
「お前まで捨てたら、森戸の家がなくなる」
深雪は錆に潤滑油を差した。父の言葉が乾くまで待つように、数十秒置く。ねじは少しずつ回った。
「家は明日なくなる。私が持って帰っても、同じ形では残らない」
「名前は残る」
「私の名前は残るよ。家を背負わなくても」
上のねじが外れ、表札が斜めになった。裏側には、壁の日焼けしていない白い四角がある。
父は「せめて写真を撮れ」と言った。
深雪はスマートフォンを出した。表札だけではなく、父が脚立を支える手と、自分の黒い靴先まで入るように撮る。
「それでいいのか」
「私はね」
下のねじも外れた。深雪は表札を父へ渡した。父は受け取らず、しばらく両手を下げたままだった。
「持つか、処分するかはお父さんが決めて」
「お前は決めないのか」
「私の荷物にしないって決めた」
父はようやく表札を受け取り、新聞紙で包んだ。処分の袋ではなく、自分の小さな箱へ入れる。箱の側面に「父」と書いた。
玄関には二つのねじ穴だけが残った。深雪が白い補修材を渡すと、父は自分で穴を埋めた。
帰り際、父が「新しい住所には、何て名前を出す」と聞いた。
「何も出さない。必要な人には部屋番号を知らせる」
「俺にも?」
深雪は靴を履き、少し考えた。
「来る前に電話するなら」
父は表札の入った箱を抱えたまま頷いた。深雪は名前のない玄関から、自分の鍵だけを持って外へ出た。