複写紙に残った一行
料理評論家が救急搬送された夜、厨房責任者の茅野杏里は、アレルギー食へ胡桃を入れた犯人とされた。
「注文票には、胡桃抜きと赤字で書かれている」
店主の深見龍晟が、客席まで聞こえる声で怒鳴った。
「それを担当したのは杏里だ。客を殺しかけた料理人を、店には置けない」
杏里の包丁から胡桃の油も検出された。深見は営業停止を避けるため、彼女個人の故意だとする事故報告へ署名する。
杏里は、注文票をもう一枚見せてほしいと頼んだ。
「原本はこれだけだ」
深見は赤字の票を振る。
店の注文票は三枚複写で、一枚目が客席、二枚目が厨房、三枚目が会計へ残る。厨房の二枚目だけが紛失していた。会計係が三枚目を持ってくる。
表面には〈胡桃厳禁〉。だが斜めから光を当てると、その上に強い筆圧で書かれた別の一行が浮かんだ。
〈杏里の皿だけ胡桃油を二滴。包丁にも塗れ〉
末尾には深見の癖のある丸印。
「いたずら書きだ!」
「では、こちらの発注は何ですか」
衛生監査官が、深見の署名入り臨時購入票を出す。普段は使わない胡桃油を、事件の二時間前に小瓶一本だけ購入していた。用途欄は〈事故再現用〉。まだ事故が起きる前だった。
深見は、評論家が杏里を料理長へ推薦したと知り、彼女を追い出すために仕組んだ。だが指示を忘れないよう複写票へ書き、購入理由まで後で説明できる言葉にしていた。
評論家はすでに回復し、監査官へ被害届を提出していた。
杏里は白衣につけられた退職札を外す。
監査官が警察官へ告げた。
杏里は評論家の皿を出す直前、香りの違いに気づいて厨房を飛び出し、救急薬を持って戻っていた。その初動が重症化を防いだ。深見はそれさえ「犯行を知っていた証拠」と言い換えたが、評論家の録音には、杏里が皿を下げようとし、深見が無理に提供を命じる声まで残っていた。客席の従業員たちは、店を守ったのが誰で、評判を壊したのが誰かをもう理解していた。
「深見龍晟を、殺人未遂、食品記録改竄および虚偽告発の容疑で逮捕する」