見えない猫の鈴

芝崎の隣室には、猫がいる。

 姿を見たことは一度もない。けれど夜になると、ちり、と小さな鈴が鳴り、床を軽い足音が横切る。皿が押される音、爪とぎを掻く一定の音。ときどき住人の低い声が「もう寝るよ」と壁の向こうで丸くなる。

 芝崎の実家にも猫がいた。

 正確には、今もいる。十一歳の茶トラで、芝崎が上京したあとも両親と暮らしている。母とは春に言い合いをしてから連絡を取っていない。猫の写真だけ欲しいとは言いにくく、家族チャットも開かなくなった。

 今夜は雨で、窓を閉めても道路の水音が続いていた。エアコンは弱い風を送り、天井灯の下で洗濯物の影が揺れる。

 隣の鈴が一度鳴った。

 少しして、爪とぎの音が始まる。ざっ、ざっ、ざっ。芝崎はベッドへ横になり、その規則正しさを聞いた。実家の猫も、眠る前に同じように段ボールを掻いた。終わると何事もなかったように丸くなる。

 実家では、猫が布団へ入ってくるまで芝崎も寝たふりをして待っていた。小さな体が足元を一周し、場所を決め、喉を鳴らす。その重さがなくなってから、ベッドは一人には広すぎると初めて知った。隣の鈴は、その記憶を埋めず、ただ端をそっと動かした。スマートフォンの写真を古い順に開いた。

 二年前、引っ越しの日。段ボールの上に猫が座り、芝崎の荷物を渡さないような顔をしている。次の写真では、空になった部屋の窓辺を猫が見ていた。

 母へ連絡する文は書かなかった。

 代わりにその写真をお気に入りへ入れ、画面を暗くした。会いに帰る日も、謝る言葉も、今夜決める必要はない。

 壁の向こうで皿が動き、住人が何か短く言った。鈴が二度鳴り、やがて足音が止まる。見えない猫は、見えない場所へ収まったらしい。

 芝崎は枕元の空いた場所へ手を置いた。温もりはなく、毛も触れない。それでも手を引っ込めず、しばらくそのままにした。

 雨は続き、エアコンの風が洗濯物を揺らしている。猫のいない部屋は猫のいないままだったが、今夜はその空きを無理に埋めずに目を閉じられた。