訳せなかった言葉

国際交流ラウンジの受付には、返却されない翻訳ヘッドセットが一台あった。

香坂文乃たちの〈となりの通訳〉は、外国人留学生と語学のできる学生を、病院や役所の用事に合わせてつなぐサービスだった。利用料は無料。大学から小さな助成金を受け、「言葉の壁をなくす」と宣伝した。

陣内大河が、終了報告書を読み上げる。

「通訳依頼百八十六件。対応完了百七十二件」

榎本スアンが言う。

「十四件は?」

「対応者なし」

文乃は受付のホワイトボードを消した。

「一件は、私が訳を間違えた」

病院で、服薬回数を一日二回と伝えるべきところを、二日に一回と訳した。すぐ訂正され、事故にはならなかった。それでも三人は初めて、自分たちが「語学が得意な学生」に医療通訳の責任を負わせていたと知った。

「無料なら許されると思ってた」と大河。

「無料だから断れない人もいた」とスアン。「善意がないと思われたくなくて」

文乃は、深夜に届いた依頼へ何度も〈対応できますか〉と送ったことを思い出した。謝礼も研修もないのに、返事が遅いと焦った。

大河は翻訳会社へ就職する。

「契約と専門分野を決めて、できない依頼は断る」

スアンは日本語学校の教師になる。

「通訳されるのを待つだけじゃなく、自分で言える言葉を増やす手伝いをする」

二人が文乃を見る。

「私は看護学部へ編入する」

「通訳をやめて、医療?」

「薬の回数を、誰かの言葉だけに任せない人になりたい」

三人は貸出品を数えた。ヘッドセットは十台のはずが九台しかない。利用記録を見ると、最後に借りた学生はすでに帰国していた。

「請求する?」と大河。

「送料の方が高い」とスアン。

「持っていてもらおう」と文乃。「一つくらい、向こう側に残ってもいい」

解散通知を掲示すると、ラウンジの利用者が「これはどういう意味ですか」と日本語で尋ねた。三人は一瞬、誰が答えるか見合った。

「今日で終わりです」とスアンがゆっくり言った。

相手は頷き、「さびしいです」と返した。

閉室後、受付の端末には〈対応可能な通訳者 0人〉と表示された。椅子の上には充電ケーブルだけが残り、海の向こうへ行った一台の輪郭を、白い埃が四角く縁取っていた。