詩集を濡らす輪
祝田詩織の送別会なのに、乾杯の音頭を取ったのは立石槐人だった。
「詩織の詩が二度と雑誌に載らないことを祝して」
「縁起でもない」と三輪望実がグラスをぶつける。
「本当に載らないよ」と詩織は笑った。「もう書かないから」
三人は大学の詩会で知り合った。詩織は信用金庫に勤める。槐人は台湾へ渡って翻訳を学び、望実は市立図書館の契約職員になる。
「昼休みに一行くらい書ける」と望実。
「一行書いたら、その続きを待つ生活になる」
「待てばいいじゃん」
「私はもう、待つのをやめたい」
詩集の最初のページには、三人で決めた会則がある。〈褒める前に読む。直す前に聞く。やめる人を追わない〉。
槐人が最後の一文を指でなぞった。「こんな規則、作った覚えない」
「私が後から足した」
「自分のために?」
「今夜の二人のために」
槐人はメニューの裏へペンを走らせる。「私は他人の言葉を別の国へ運ぶ」
望実は箸袋を折った。「私は他人の言葉が返却されるのを待つ」
二人が詩織を見る。
「私は、数字が合わない人の話を聞く」
「それも詩みたい」と槐人。
「何でも詩にするの、やめて」
詩織の声だけが少し強かった。三人は黙り、焼き鳥の串を皿へ重ねる。
やがて望実が、学生時代に作った薄い詩集を出した。詩織のページを開き、最後の一編を読もうとする。
「やめて」
「最後だから」
「最後にしないために、読まないで」
店員が濡れたテーブルを拭き、ばらけた一枚を落とした。槐人は詩織のページをグラスの下へ敷く。
「ごめん、コースターにした」
「それくらいでいい」
望実は追わない代わりに、グラスを一度だけ強く合わせた。
会計票はきれいに三等分された。槐人が詩織の分を払おうとしたが、彼女は一円まで返した。言葉をやめる代わりに、借りまで物語にされたくなかった。望実は小銭を受け取り、会則どおり、追わなかった。
三人が別れたあと、ページには丸い水の輪が残った。最終行の文字だけが滲み、何と書いてあったのか、もう誰にも読めなかった。