誰も書かなかったラブソング
巴アリサの最後のライブには、二人の作詞家がどちらも書いていない歌詞があった。
男性作詞家の羽鳥晴臣と、女性作詞家の比良坂依子は、警察の試写室で映像を見ていた。二人ともアリサと交際していた時期があり、曲『NOT YOURS』は三人の関係を題材にしたと噂されている。
サビの終わり、アリサはマイクから口を離し、無音で唇を動かした。読唇補助字幕だけが拾う。
〈好きじゃない〉
晴臣は依子への拒絶だと言い、依子は晴臣への別れだと言った。
アリサは曖昧な笑顔で、二人に何度も同じ言葉を使った。
「好きだとは言わない」
嫌いとは言わない。愛していないとも言わない。その隙間に二人を置き、歌の材料にしていた。晴臣は自分こそ本命だと信じ、依子は曖昧さこそアリサの愛だと言った。二人は曲の権利を争いながら、彼女が本番前に水の味へ敏感になることだけは知っていた。喉を守るため、銘柄も温度も毎回同じだった。アリサはラベルを客席側へ向け、ひと口ごとに蓋を閉める。映像でも、その几帳面な指だけが曲のテンポから外れて震えていた。
映像がサビへ入る直前、スタッフが水のボトルを渡す。アリサは一口飲み、眉を寄せた。すぐ歌へ戻るが、高音が半音ずれ、指先が震え始める。最後の母音を伸ばしたあと、もう一度ボトルへ目を落とし、声を出さずに言う。
「好きじゃない」
その直後に倒れた。死因は心不全と発表されたが、再鑑定で水から毒物が検出された。
読唇担当者が映像を拡大する。アリサの視線は晴臣にも依子にも向いていない。ボトルを見ている。彼女が拒絶したのは恋人ではなく、いつもと違う甘苦い味だった。
読唇補助字幕は歌詞ではなく、最後の警告をリリック欄へ誤って載せたのだ。
映像の前半へ戻す。ボトルを置いた手には、依子が贈った指輪ではなく、晴臣だけが使う黒いペンの汚れが付いている。
「好きじゃない」
最後の言葉は、どちらを愛していたかという恋の答えではなかった。
自分を殺す味を見分けた、短すぎる鑑定結果だった。