謝らない相合傘

黎は、何かを借りるたび先に謝った。「ごめん、ペン貸して」「ごめん、少し手伝って」「ごめん、傘に入れて」。迷惑をかける前から自分を小さくしておけば、断られても傷が浅い。助けてもらったあとも何度も礼を言い、相手が「もういいよ」と笑うまで借りを数え続けた。学生時代、ノートを借りた友人に陰で面倒だと言われてから、頼ることと負担をかけることを同じにしていた。

夕立の日、駅前で一本の壊れた傘をさす旅人を見た。骨は二本折れ、布には旅先の地図が縫い合わされている。雨は隙間から容赦なく落ち、旅人の肩はびしょ濡れだった。

「コンビニで買ったほうがいいですよ」

黎が声をかけると、旅人は晴れやかに答えた。

「これは、借りる練習用です」

旅人は通りすがりの人に「傘へ入れてください」と頼んだ。断られると礼を言い、次の人にも同じように頼む。三人目の老婦人が傘を傾けると、旅人は「助かります」とだけ言って並んで歩いた。ごめんなさいを一度も使わない。

別れ際、旅人は折れた傘から地図の一片を切り、黎へ渡した。裏に「一度だけ、謝らずに借りる」と書かれている。

「相手が嫌だったら?」

「相手には、断る言葉があります」

「嫌われたら?」

旅人は雨粒を受けながら首を傾げた。答えを知らないようだった。そのまま別の傘を探し、人波へ紛れた。

黎の傘は朝から会社に置いたままだった。駅の屋根の下で雨が弱まるのを待つ。そこへ同じ部署の先輩が来た。二人の家は途中まで同じ方向だと知っている。

「入る?」と先輩が傘を持ち上げる。

黎の口には、いつもの「ごめんなさい」が浮かんだ。借りる理由、返せないもの、濡らすかもしれない肩。全部説明し、代わりに何を返すかまで約束しそうになる。先輩は急かさず、傘を上げたまま待っていた。

地図の紙片が、濡れた指に張りついた。断る言葉は相手のもの。頼む言葉は自分のものだ。

黎は謝罪を飲み込み、傘の下へ一歩入った。

「駅前の角まで、入れてください」

先輩が「もちろん」と傘を中央へ寄せる。二人の肩に雨粒が同じくらい当たった。黎はもう謝らず、同じ速さで雨の歩道へ踏み出した。