赤い傘を撮らない
午後五時十一分、牧瀬冬馬のカメラに通知が届いた。
〈四十七歳の報道写真家である君より。五時十二分八秒、赤い傘へシャッターを切れ〉
市民マラソンのゴール前。大手紙との契約を懸けた最後の取材だった。レンズキャップの裏には、編集長の癖字で「撮れ、考えるな」と書かれている。
五時十二分八秒。先頭集団の選手が濡れた白線で転倒し、後続が折り重なる。観客席から赤い傘が飛び出した。冬馬は通知どおり連写した。一枚だけ、倒れた優勝候補の顔と赤い傘が完璧な三角形を作る。
受賞速報が画面に出た瞬間、シャッター音が逆に鳴った。
〈五時十二分八秒、赤い傘へ〉
レンズキャップはまた手の中にある。
二度目は低い位置から撮った。三度目は望遠へ替えた。差分で写真の評価は上がり、未来の展示会、写真集、国際賞が通知に増えた。けれど受賞が確定するたび五時十一分へ戻る。
十二回目、未来の記事の続きを読んだ。写真の中央で倒れた選手は競技へ復帰できず、苦痛に歪んだ顔が広告や教材へ無断転載され続けている。本人が削除を求めるたび、四十七歳の冬馬は「歴史的記録」を理由に拒んでいた。
〈成功条件:顔、ゼッケン、赤い傘を一枚に収め、原版を通信社へ送信〉
事故を止める時間はある。だが未来の自分は、その選択肢を一度も送ってこない。通知が欲しいのは出来事ではなく、所有できる一枚だった。
十三回目。編集長の声がイヤホンで飛ぶ。
『撮れ、考えるな』
五時十二分八秒、選手が転倒した。赤い傘が開く。冬馬はカメラを構え、焦点を合わせ、シャッターへ指を置いた。
そしてレンズキャップを戻した。
暗いファインダーの中で、歓声が悲鳴へ変わる。冬馬は撮影せず、カメラの通信契約を解除した。違約金、独占契約の破棄、今後の取材証停止。端末には赤い警告が並ぶ。
未来から通知が三度届いた。
〈今しかない〉
〈撮らなければ誰も君を知らない〉
〈その一枚は歴史になる〉
冬馬はレンズキャップの裏の文字を親指でこすった。
「知られない記録もある」
五時十三分。時間は戻らない。救護員が走り、赤い傘は人波に隠れた。
冬馬のメモリーカードには、事故前の空の写真しか残っていなかった。それを消さずに、カメラを鞄へしまった。