辛子を避けない角煮

茅野景明の会社員生活は、明日の和解面談で終わる。

 顧客情報が外部へ売られている証拠を、社内窓口へ出した。調査が始まる前に、景明の部署異動と減給が決まり、彼は退職を選んだ。その後、会社から「認識の相違があった」という文書へ署名すれば、未払いの手当と退職金を満額支払うと連絡が来た。

 文書には、景明が見た記録の真偽は確認できなかった、と書かれている。署名すれば生活は楽になる。転職先はまだ決まらず、引っ越し費用も必要だ。証拠はすでに弁護士へ渡した。自分一人が言葉を曲げても、調査は続くかもしれない。

 会社近くに来るのは明日で最後。この店へ寄るのも今夜が最後だった。客は景明一人。豚の角煮を頼む。

 煮汁が鍋で低く揺れ、八角と醤油の濃い匂いが立った。箸を入れると肉の層がほどけ、白い脂から湯気が上がる。皿の端には黄色い辛子が添えられていた。

「辛子、外すか」

「そのままで」

 景明は最初の一切れを何もつけずに食べた。脂は甘く、舌の上で消えた。次に辛子を多くつけると、鼻の奥へ鋭い痛みが走り、目に涙が浮かんだ。

 彼は和解文書を開き、「真偽は確認できなかった」の一文へ修正要求を書き込んだ。明日、金額の交渉はする。ただし、自分が確認した事実までは撤回しない。まとまらなければ署名せず帰る。

 正しさが家賃を払ってくれるわけではない。転職で不利になるかもしれない。調査が何も変えない可能性もある。それでも、自分の最後の名前を、会社に都合のいい文章の下へ置かない。

弁護士は、和解を拒めとは言わなかった。生活を守ることも告発を続けることも、どちらも間違いではないと言った。その言葉が、景明にはかえって難しかった。明日は正義の演説をするのではなく、修正したい一文と最低限必要な金額を紙に書いて持っていく。声が震えても、その二点だけは読み上げる。勝つためではなく、何を差し出したか分からないまま席を立たないために。

 最後の角煮には辛子を少しだけつけた。肉の温かい甘さが先に広がり、そのあと細い刺激が、消えずに鼻の奥へ残った。