返さなくていい本
倉科柚月は、親友から借りた本を返すため、終業式のあとも教室に残った。
親友は春から海外へ行く。父親の仕事の都合で、帰国時期は決まっていない。
借りたのは、二人が中学一年で好きになった物語だった。表紙は何度も持ち歩いて柔らかくなり、角には透明テープが貼られている。
「これ」
柚月が差し出すと、親友は首を振った。
「返さなくていい」
「借りたものだから」
「荷物減らしたいし」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ、あげる」
「いらない」
言った瞬間、教室が静かになった。
本がいらないのではない。もらったら、別れの品になってしまう。それが嫌だった。
親友も分かったらしく、表紙を見たまま黙った。
窓の外で、運動部が終業式の日まで走っている。黒板には、春休みの宿題が半分消えずに残っていた。
「じゃあ私が借りる」
親友が言った。
「今、私の本でしょ」
「柚月にあげた。だから柚月の本を、私が借りる」
「海外まで?」
「返却期限は、帰ってきた日」
ずるい方法だった。
柚月は本を一度胸へ引き寄せた。所有者になった実感などない。見返しには親友の名前が油性ペンで書かれている。
その下へ、柚月も自分の名前を書いた。
二つの名前の間に、矢印を一本ずつ引く。
『貸す→』
『←返す』
親友は笑った。
「どっち向きか分からない」
「今はそっち」
「次は?」
「帰ってきたら私」
本を紙袋へ入れ、親友へ渡した。
駅で見送る代わりに、二人はいつもの昇降口まで一緒に歩いた。親友は靴を履き替え、本の入った袋を上履きの棚へ一度置いた。
「忘れないで」
「本を?」
「返すこと」
「そっちこそ、貸したこと忘れないで」
校門で別れた。
半年後、本の写真が届いた。外国の窓辺に置かれ、知らない街の光を受けていた。見返しの二つの名前も、写真の端にきちんと写っていた。
一年後には、砂浜。二年後には、大学の寮。
本はまだ返ってこない。
それでも柚月は、返されないことを延滞とは思わなかった。
二つの名前を結ぶ矢印が、遠い町まで伸びている途中なのだと思っていた。