返したカーディガン
壬生川音羽の右肩には、十年前の手術痕がある。
鎖骨の下から肩先へ伸びる、細く盛り上がった線。腕は問題なく動くのに、音羽は袖のない服を着なかった。夏の社内でも薄いカーディガンを羽織り、写真では必ず右側を壁へ寄せた。
服を買うときは、まず袖の位置を確かめた。好きな色でも肩が開けば棚へ戻す。傷を隠せるかどうかが、十年間ずっと音羽の好みより先に決めてきた。
七月の終わり、出張先で荷物をなくした同僚に、音羽は予備のカーディガンを貸した。翌週には返ってきたが、今度は会社の空調が故障した。室温は三十度を超え、窓を開けても熱い風しか入らない。
音羽の下は、肩の出る黒いブラウスだった。本当はカーディガンと合わせる前提で買ったものだ。背中に汗が流れても、前のボタンを留め、袖口まで下ろしていた。
昼過ぎ、貸した同僚が寒い会議室へ移ることになり、「また借りてもいい?」と机の横へ来た。音羽は反射的に、今日は無理、と言いかけた。脱げば傷が見える。
けれどカーディガンの内側は汗で湿り、右肩の傷にも布が擦れていた。守るための服が、皮膚を赤くしている。
音羽はボタンを外した。袖を抜くと、冷房のない空気さえ肩に涼しかった。カーディガンを畳み、相手へ渡す。
「洗ってないけど、それでもよければ」
傷については言わなかった。
同僚は会議資料を抱えたまま受け取り、礼を言って急いで出ていった。音羽の右肩を見たかもしれないし、見なかったかもしれない。残ったのは、開いたドアとコピー機の作動音だけだった。
午後、音羽は何度か傷を隠すように腕を組みかけた。そのたびに机の上の書類へ手を伸ばした。仕事はいつもどおり一つ遅れ、電話が二本入り、修正メールを送った。
傷を見せたからといって、自分が強くなった感じはしない。ただ汗を拭くとき、布を押し込まずに済んだ。右腕を上げる動作が、いつもより短かった。
退勤時、カーディガンはまだ戻ってこなかった。音羽は更衣室の予備の上着を探さず、そのまま外へ出る。
夕方の風が右肩を撫でた。傷は消えない。けれど今日は、布との摩擦で増える赤みがなかった。