返した合鍵だけが残る

二十三時五十五分、江波戸碧は最終電車のホームで真鍮の合鍵を握った。

別れた恋人は紙コップのココアを持ち、発車案内を見ている。半年前、碧は共同貯金を使って転職を決め、相談ではなく決定として伝えた。彼女が部屋を出たあとも、謝る代わりに合鍵だけを残していた。別れ際、彼女は「返事を急がせないで」と言った。その言葉まで、碧は復縁の猶予だと都合よく解釈した。電車が来るまで五分。

「まだ好きだ」

彼女は目を伏せた。

「その好きは、私が戻るまで続くの?」

零時。電車がホームを離れた瞬間、碧は再び二十三時五十五分へ戻った。ココアの湯気も、合鍵の冷たさも同じだった。

彼女を電車へ乗せず、零時を一緒に越えればループは終わる。碧はそう信じた。

二周目、同棲していた部屋を残してあると話した。

「まだ好きだ」

「部屋が好きなの? 私が好きなの?」

三周目、悪かったところを全部挙げた。五周目は復縁後の約束を書いたメモを渡した。彼女は読むたび、同じ時刻の電車へ乗る。

七周目、碧は発車ベルの直前に紙コップを奪った。電車を一本逃せば成功するはずだった。だが彼女はホームの非常通路から去り、零時にまた戻った。

八周目。

「その好きは、私が戻るまで続くの?」

碧は答えを探し、初めて自分の目的を疑った。彼女に戻ってほしいのではない。零時を一人で迎えるのが怖かった。だから五分間へ彼女を閉じ込めていた。

九周目。碧は合鍵を彼女の掌へ置く。

「まだ好きだ」

彼女が息を吸う。碧は返事を待たず、向かい側に停まった反対方向の電車へ乗った。

扉が閉まる直前、彼女が何か叫んだ。聞こえなかった。真鍮の合鍵だけがホームの灯を反射する。

零時。車内時計は零時一分へ進んだ。

碧のスマホから、二人で住んだ部屋の住所が消えた。ループを作った代償として、その場所へ戻る記憶を失ったらしい。

窓の外を知らない街が流れる。碧はまだ好きだという感情だけを持ち、どこへ帰りたかったのかを知らないまま、次の駅で降りた。