返信不要のメール
峰岸智也から届くメールは、いつも同じ言葉で終わった。
〈時差がありますので、返信不要です〉
ロンドン支社へ赴任した彼と、大庭瑞季がやり取りするのは仕事だけ。東京の夕方は向こうの朝で、向こうの深夜は東京の始業前だった。気遣いの一文に従い、瑞季は何度も書いた返事を消した。
本当は、報告書にないことも聞きたかった。今日の天気、食べたもの、帰任したら最初に行きたい場所。それでも会社の署名がつくメールでは、同僚以上の言葉を送れなかった。
一年の赴任最終日。午後六時、最後のメールが届く。
件名〈帰任のご挨拶〉
〈本日付でロンドン支社の業務を終了しました。これまでありがとうございました。返信不要です〉
たったそれだけだった。帰国日は来週だと聞いている。瑞季は画面を閉じようとして、添付ファイルが一つあるのに気づいた。
開くと、航空券ではなく、土曜日のカフェ予約票だった。二名。予約者は「峰岸智也」。備考欄に〈同行者の返事待ち〉とある。
瑞季が顔を上げると、ガラス張りの会議室の向こうに、スーツケースを引いた峰岸が立っていた。来週ではなく、今日の便で戻ってきたらしい。片手には、ロンドンで彼女が好きだと言った紅茶が二つ。
彼は近づかず、スマートフォンを持ち上げた。返事を急かさないための距離だった。
瑞季は新規メールを開く。会社の定型文を消し、宛先を彼の個人アドレスに変えた。
〈智也さん
土曜日、同行します。
その次の予定も、当日決めましょう。
瑞季〉
送信すると、峰岸のスマートフォンが震えた。彼は画面を見てから、初めてこちらへ歩いてくる。
「返信、不要だったんですけど」
「一年分、たまっているので」
「全部、聞いても?」
「会社を出てからなら」
峰岸は紅茶を一つ渡し、空いた手を差し出した。瑞季は受け取るだけでなく、その手を握る。二人で入館ゲートを抜けるまで、指はつながったままだった。
〈返信不要です〉は、彼女を遠ざける言葉ではなかった。いつでも休ませてくれる、彼なりの優しさだった。
だからこれからは、返さなくてもいい言葉にも、瑞季は自分の意思で返事をする。