返却済みの永久貸出
王立書庫には、人の記憶を探し出せる索引係がいた。
ただし職員名簿に彼女の名はない。記憶魔族トルネは地下の椅子へ縛られ、胸に一枚の貸出票を刺されていた。大臣エレクトが題名を告げれば、誰の記憶でも抜き出し、秘密として閲覧させられる。奪った記憶は彼女自身の中へ積まれ、知らない母の声や、会ったことのない恋人との別れが、眠るたび押し寄せた。
司書ナシェが地下整理を命じられた日、貸出票の所有者欄を渡された。
「あなたの名へ書き換えれば、忘れた恋も他人の弱みも、何でも読めます」
「返却期限は?」
「ありません。あれ自身が本ですから」
ナシェは貸出票を抜こうとした。トルネの胸から血ではなく、白い文字が溢れる。
「抜けば、あなたの記憶は消える?」
「私の中にある他人の記憶が、持ち主へ戻ります。私は空になるでしょう」
「空になったあとのことは?」
「誰も試していません」
ナシェは所有者欄へ署名せず、返却印を強く押した。
――永久貸出、返却済み。
矛盾した二つの言葉が赤く燃え、貸出票は中央から裂けた。地下を無数の光が飛び出し、王都じゅうへ散っていく。奪われた記憶が本来の持ち主へ戻ったのだ。
トルネは椅子から立ち上がった。
「私は、何を覚えている?」
「自分で確かめて」
「あなたのことも忘れるかもしれない」
「それでも、忘れないよう命じる権利は私にない」
椅子を離れた足は震えていた。どの歩き方が自分の癖なのかも分からず、それでも彼女は誰の記憶にもない一歩を選び、光のあとを追って地下を出た。
数か月後、秘密を失った大臣は失脚し、書庫は混乱していた。ナシェが索引棚を直していると、一枚の新しいカードが差し込まれている。
――トルネ。旅の記録、第一巻。
本人が棚の向こうから顔を出した。背には各地で書いた分厚い手帳がある。
「空になった?」
「いいえ。雨の匂い、北町の菓子、船酔い。自分で得た記憶は残りました」
彼女は裂けた貸出票を二片ともナシェへ返し、代わりに白紙の利用証を差し出す。
「ここへ戻る理由も覚えている。あなたが私を本ではなく、読者にしてくれたから」
ナシェが利用証を渡すと、トルネは所有者欄ではなく、利用者署名へ自分の名を書いた。