退職届は白紙のまま

朝帆が実家へ着くと、食卓に退職届の用紙が置かれていた。

母がインターネットから印刷したものだった。日付と会社名は空欄で、氏名欄の横にだけ付箋がある。

「ここに書けばいいの?」

母は悪びれずに言った。「お父さん、来月から透析でしょう。しばらく仕事どころじゃないもの」

父は新聞を読み、姉はビデオ通話の画面で「朝帆の会社なら復職もしやすいでしょ」と言う。誰も、朝帆が辞めたいかを尋ねない。

母は退職後の生活まで決めていた。平日は実家、週末だけ自宅へ戻り、落ち着いたら再就職すればいいという。朝帆の部屋の家賃も、築いてきた担当業務も、紙の空欄より軽く扱われた。

用紙の白さを見ていると、高校の進路希望票を思い出した。母が鉛筆で学校名を書き、朝帆はなぞるだけだった。

「辞めないよ」

母の顔が強張る。「じゃあ誰が送迎するの」

「病院の送迎、福祉タクシー、介護休暇を組み合わせる。私は月二回だけ同行する」

「他人に任せるなんて」

「透析は何年続くか分からない。私が退職したら続けられる、という計画にはしない」

朝帆はその場で病院の相談窓口へ電話した。送迎の対象地域と費用を聞き、父にも電話口で希望時間を答えてもらう。姉には月一回の受診説明をオンラインで聞く役を頼んだ。

父が新聞を畳んだ。「会社には迷惑じゃないのか」

「休む日は相談する。でも辞めるかどうかを家族が先に決めるほうが、私には迷惑」

声は静かだった。怒鳴らずに言えたことが、かえって自分の言葉に聞こえた。

母は退職届を引き寄せ、「心配しただけ」と呟いた。

「心配なら、私の仕事を消さない方法を一緒に考えて」

夕食前、朝帆は用紙を二つ折りにした。破らず、母へ返す。

「白紙のまま処分して」

母はすぐには動かなかったが、食卓の端にある紙ごみ袋へ入れた。

翌週の送迎予約が取れた通知が届く。朝帆は会社へ送る介護休暇の申請書を一日分だけ作成した。氏名欄は自分で書いた。

退職届は白紙のまま消え、働き続けるための用紙だけが、朝帆の鞄に残った。