退職者支援室の弁当箱

退職を迷う社員は、一度だけ退職者支援室を利用できる。翌日食べる予定の弁当を持参し、無記名の申請書と一緒に机へ置いて十三分待つ。戻った弁当は、その会社で迎える最後の出勤日の状態になっている。開けるのは退職届を出した後。残ると決めた場合は、蓋を取らずに返却する。

支援室の場所は人事も知らなかったが、昼休みに空の弁当箱を持って非常階段を十三段下りると、鉄扉が現れた。

設備会社で現場調整をする龍岡は、三か月連続で休日を失っていた。退職届のファイルを作っては閉じた。辞めれば奨学金の返済が苦しい。残れば、自分の部屋より仮設事務所に詳しくなる。

弁当は毎日コンビニで買っていた。支援室へ持っていく箱がなく、実家の棚から古いアルミの弁当箱を探した。母が高校時代に使っていたものだ。母は二年前に亡くなり、最後の入院日に「明日は弁当を作る」と言った。龍岡は仕事があるから要らないと答えた。

空の箱を持って鉄扉を開けた。室内には机が一つ。申請書へ退職理由を書こうとしたが、一行では収まらない。結局〈帰宅したい〉とだけ記した。

十三分後、弁当箱はひどくへこんで戻った。蓋には無数の社員証の角が押しつけられた跡があり、底からわずかに味噌の匂いがする。重さは空のときより軽かった。

開けてはいけない。龍岡は箱を鞄へ入れ、現場へ戻った。

その夜、事故寸前の連絡が入った。工程を急がせた上司の指示で、安全確認が省かれていた。龍岡は一晩かけて報告書を作り、朝、提出前に削除するよう命じられた。

「会社に残りたいなら分かるだろう」

龍岡は鞄の中の弁当箱を触った。冷たいはずのアルミが、炊きたてのように温かかった。

退職届と事故報告書を同時に送信した。送信済みを確認してから、規則どおり箱を開ける。

中にはご飯もおかずもなかった。焦げた梅干しの種が一つと、短くなった赤い鉛筆が入っている。蓋の裏には母の字で〈帰るまでが仕事〉と引っかかれていた。ただし「帰る」の二文字だけ、龍岡自身の筆跡だった。

会社を出ると、弁当箱のへこみが一つずつ戻り始めた。最後まで残った小さなくぼみから、細い緑の芽が出た。

芽の先には葉ではなく、親指ほどのタイムカードが一枚ついていた。退勤時刻の欄には、まだインクの乾かない現在時刻が打たれていた。