逃げろという最後の命令
奴隷競売で、縞鬣犬の獣人ギドだけは誰も買おうとしなかった。
「主人を三人噛んだ凶暴種! ただし首輪の命令には絶対服従!」
競売人が叫ぶたび、ギドは鎖の奥で乾いた笑い声を漏らす。
「四人目になりたい馬鹿は?」
「銀貨一枚」
手を挙げたのは、旅装の青年フェルドだった。
落札が決まると、競売人は黒い所有札を渡す。
「ここへ名を書け。最初の命令は『跪け』がおすすめだ」
フェルドは所有者欄へ何も書かなかった。
代わりに檻を開き、ギドの首輪へつながる札を握る。
「最初で最後の命令だ。逃げろ」
首輪が青く光った。
ギドの脚は本人の意思より先に動き、競売台を飛び越え、客を蹴散らし、市場の門へ駆ける。
「ははっ! いい買い物だ!」
競売人が笑う。
「命令は『逃げろ』だ。世界の果てまで止まらんぞ。首輪をお前の名へ登録しない限りな!」
「だから、登録しない」
フェルドは所有札を膝で折った。
市場の門を越えた瞬間、ギドの首輪が弾ける。強制された脚は止まり、鉄片だけが石畳を転がった。
追いついた競売人が怒鳴る。
「銀貨を捨てたぞ!」
「違う。銀貨一枚で、命令を最後まで使い切った」
フェルドは割れた札を衛兵へ渡した。違法競売の証拠になる。
ギドの姿はもうない。街道にも、丘にも、縞模様の背は見えなかった。
「噛まれずに済んだと思え」
競売人が吐き捨てる。
その夜、フェルドが焚き火で豆を煮ていると、背後から乾いた笑い声がした。
ギドが木の枝へ腰掛け、競売人の金庫から奪った契約台帳を抱えている。
「逃げろと言われたから逃げた」
「もう命令は切れたはずだ」
「ああ。だから戻ってきた」
ギドは腰の曲刀を抜き、柄の方をフェルドへ向ける。
「四人目の主人にはならないと言ったな」
「言っていないが、そのつもりだ」
「なら一人目の相棒になれ。俺は逃げ道を見つける。お前は首輪を壊す」
フェルドは曲刀を受け取らず、豆の椀を一つ増やした。
競売台で聞いた笑いとは違う、腹の底からの笑い声だった。
ギドは笑いながら武器を自分の腰へ戻し、命令のない焚き火の隣へ座った。