銀針の軍書

ファルザーンは軍書を外套の裏へ縫いつけた。

使ったのは一本の銀針。王宮書記に任じられた日に母からもらった物で、これまで人を刺したことはない。今夜は一人を死地へ送る。

「見つけやす過ぎませんか」

伝令のダリヤーンが袖を通しながら言った。

「敵に見つけてもらう文だ。難しく隠すな」

敗れた谷軍は、黎明までに鷲門峠を抜ける。追う総督サマルクは、こちらの暗号を解く書記を抱えていた。普通の偽書なら疑われる。そこで文面は真実にした。

――本隊は第二刻、鷲門を捨て、南の葡萄道へ退く。

実際そのとおりに退く。ただし草原の暦で第二刻は月が山へ触れる時、帝国暦では月が山を離れる時。二つの刻には半刻の差がある。軍書の紙も印も本物。嘘は一字もない。

「捕らわれたら、暦の違いを話すな」

「話せと言われても、舌を噛めるほど勇敢ではありません」

ダリヤーンは笑った。十九歳だった。

ファルザーンは銀針を抜こうとしたが、彼が手で止めた。

「残してください。縫い目が新しければ、敵は急いで隠した文と思う」

「針が背に刺さる」

「捕まるまで眠らずに済みます」

彼は北道へ馬を出した。銀針が外套の内側でかすかに鳴った。敵の斥候に見つかりやすいよう、蹄へ鉄輪をつけてある。ファルザーンは見送らず、本隊を南の葡萄道へ進ませた。

月が山へ触れた。草原暦の第二刻。兵たちは一斉に峠を離れる。

背後の敵陣は動かない。サマルクの書記は帝国暦で読み、あと半刻待つ。伏兵を置き、退却隊が自ら袋へ入る瞬間を狙うだろう。

葡萄畑の石垣を抜けたところで、遠くから男の叫びが一度聞こえた。ダリヤーンが捕らわれたのか、殺されたのかは分からない。ファルザーンは銀針のない指先を握った。

半刻後、敵の角笛が北で鳴った。待ち伏せ開始の合図。誰も来ない道を、千の槍が見張っている。

最後の傷兵が鷲門城へ着く。城壁から暦鐘が二度鳴った。

ファルザーンは声を上げた。

「退却完了。葡萄門を閉じよ」

命令が走り、城の赤い軍旗が夜明けの風へ上がった。