録音されなかった答辞

【卒業式記録音声 3月1日】

00:00 体育館のざわめき。

00:07 録音担当者の咳。

00:12 「卒業生答辞」と司会。

00:18 マイクの雑音。

00:21 無音。

小早川茅乃の答辞は、そこから先、一秒も録音されていない。

茅乃は幼いころから、緊張すると最初の音が出なくなった。答辞に選ばれてから一か月、毎朝誰もいない体育館で練習した。「やわらかな春の光」という冒頭だけで、百回以上つかえた。

本番、演台の前に立つと、保護者席のビデオカメラが一斉に向いた。茅乃は原稿を開き、息を吸った。

「や、やわらかな――」

その瞬間、マイクが低く唸り、音が消えた。

教頭が袖から駆け寄った。「少し待って」と言い、予備のマイクを探し始める。体育館の後ろでは、何が起きたのか分からない人たちがざわめいた。茅乃は原稿の文字が水に沈むように遠ざかるのを見た。

最前列で、友人の菜摘が両手を耳の横へ添えた。

「聞こえる」

声には出さず、口の形だけでそう言った。

茅乃は演台から一歩横へ出た。先生が制止する前に、舞台の縁まで進む。マイクのない場所では、失敗しても機械のせいにできない。けれど、完璧に録音されるために書いた言葉ではなかった。

「やわらかな、春の光の中で」

最初の音は震えた。

後方の生徒が身を乗り出し、椅子の軋む音が波のように広がった。咳が止まり、紙をめくる音も消えた。茅乃は何度かつかえ、そのたび待った。誰も続きを代わりに言わなかった。

最後の「ありがとうございました」は、体育館の一番後ろまで届いたか分からない。それでも前の列から順に拍手が起こり、やがて屋根を震わせた。

式後、録音係が青ざめて謝った。茅乃は空になった音声ファイルを受け取り、削除しなかった。そこには声ではなく、みんなが耳を澄ませた二分間が入っている気がした。

八年後、茅乃は大事な企画説明の直前、オンライン会議の音声障害に見舞われた。用意した動画も共有できない。上司が延期を提案する。

茅乃はノートパソコンを閉じ、会議室の中央へ立った。

「近くへ来てもらえますか」

人が椅子を動かす。あの日と同じ軋みが響く。

記録に残らない言葉でも、人を動かせることを茅乃は知っている。息を吸い、最初の一音を、自分の届く距離へ放った。