録音開始前
「では、認めるんですね」
録音が始まった最初の言葉が、それだった。
野路結衣監察官は、画面の波形を止めた。向かいの本郷大雅巡査部長は、押収品へ違法薬物を入れたと自白している。録音上は四十二分の聴取で、暴言も誘導もない。だが本郷は開始直後から泣き、何を認めるのか説明される前に「はい」と答えていた。
藤堂貴一監察部長が言った。
「本人は署名した。余計な推測は不要だ」
結衣は録音機の仕様書を開いた。この機種は、開始ボタンを押す前の三十秒を一時記憶する。事故防止用の先行バッファだ。通常の再生画面には出ないが、原データには残っている。
彼女は隠し領域を展開した。
ざらついた音のあと、藤堂の声が入った。
『薬を入れたと認めろ。拒めば、弟の店を薬物捜索する。何も出なくても客は戻らん』
本郷の声が震える。
『あれは班長の命令です』
『録音が始まったら、その名は言うな』
三十秒が終わり、正式記録の「では、認めるんですね」へつながった。波形には切れ目がない。脅迫と自白は、一つの録音だった。しかも藤堂の机には、弟の店の所在地を印刷した捜索準備票が伏せて置かれていた。日付は今日だった。
藤堂は無言で端末の電源ケーブルを抜いた。内蔵電池で画面は消えない。
「先行バッファは記録ではない」
「音声原本の一部です」
「監察の技法を外へ出せば、今までの聴取がすべて疑われる。虚偽を認めた警察官が、脅されたと言い出すぞ」
「実際に脅した聴取もあったと分かります」
「組織を守るための圧力はある。本郷一人の自白で、違法薬物の捏造事件は終わる。班長まで追えば、過去の逮捕が崩れる」
本郷が顔を上げた。
「野路さん、消してください。弟は関係ない」
結衣は一瞬、カーソルを削除へ置いた。代わりに、原データを書換不能の監察記録へ書き出す。藤堂の管理権限では消せない領域だ。
保存完了の表示を確認し、彼女は新しい録音を開始した。
「藤堂監察部長。今から、録音開始前の威迫について聴取します」