鍋敷きの裏の文字
瀬名井朋香は、八歳の牧野田奏を迎えた日に、家中へ名前の札を貼った。
〈奏の歯ブラシ〉
〈奏のタオル〉
〈奏の引き出し〉
自分の物がどれか分かる方が安心するだろうと思ったのだ。
奏は札を見て、黙って頷いた。
けれど一週間後、冷蔵庫のプリンへも〈奏〉と書いたところで言った。
「朋香さんは食べないの?」
「奏の分だから」
「二個ある」
「一個は朋香」
「じゃあ書かなくても分かる」
もっともだった。
札は少しずつ減った。
歯ブラシは色で分かる。タオルは大きさで分かる。引き出しは、使っているうちに覚える。
最後まで残ったのは、木の鍋敷きの裏だった。
奏が学校の工作で作り、裏へ太い字で〈まきのだかなで〉と書いている。
冬の晩、二人でクリーム煮を作った。
鶏肉、白菜、人参。牛乳を入れると、鍋から白い湯気が上がった。
朋香が鍋敷きを探すと、奏が先に卓へ置いた。
裏返しのまま置かれ、名前が見えている。
「表を上にするんじゃない?」
「今日はこっち」
鍋は奏の名前の上へ載った。
「熱で消えない?」
朋香が訊く。
「消えてもいい」
「頑張って書いたのに」
「家にあるって分かるから」
二人で鍋を食べた。
牛乳の甘さと胡椒の香りが、窓の曇った部屋へ広がる。
奏は人参だけ先に食べ、朋香は白菜を多く取った。
「この鍋、誰の?」
奏が訊く。
「家の」
「鍋敷きは?」
「家の」
「じゃあ、僕の名前を書き直さなくていいね」
食後、鍋敷きを洗うことはできないので、濡れ布巾で拭いた。
裏の文字は少し薄くなっている。
朋香は油性ペンを持ち出しかけ、奏に止められた。
「消えたら、そのとき考える」
「何を書く?」
「二人の名前でも、何もなしでも」
春になるころ、裏の文字はところどころ読めなくなった。
それでも鍋を置くたび、奏は自分が作ったものだと分かる。
朋香も、その鍋敷きが食卓の真ん中へ来た日のことを覚えている。
台所にはクリーム煮と胡椒の温かな香りが残った。
持ち物へ名前を書かなくても、自分の場所が分かる家になりつつあった。
木の裏の薄い文字は、消えながら二人分の暮らしへゆっくり馴染んでいった。