鏡の中だけ先に笑う
舞台女優の鳳来寺蘭花は、楽屋の鏡を見て悲鳴を上げた。
自分は真顔なのに、鏡の中の蘭花だけが笑っていた。
メイク係が駆けつける。
「鏡の霊よ」
演出助手は蘭花を見る。
「昨日、鏡の前で役を降りたいと言ったでしょう」
「それで代役を鏡が?」
衣装係も加わる。
「前の主演女優の未練かも」
「その人は今、隣の劇場で主演中」
「生霊という可能性」
「売れっ子がそんな暇ある?」
蘭花が右手を上げると、鏡の像は少し遅れて右手を上げた。
「動きもずれてる」
演出助手が言う。
「あなたの演技が鏡より遅いのでは」
「基準を鏡側にしないで」
メイク係は衣装係を疑う。
「特殊効果の仕込み?」
「私は服担当」
「服が鏡に映る」
「責任範囲を反射で広げないで」
鏡の蘭花が、今度は口を動かした。
〈逃げて〉
そう見えた。
メイク係は鏡の前へお守りを並べた。
「どれか効くはず」
衣装係が尋ねる。
「宗派が三つ混じってる」
「鏡の霊の信仰が分からないから」
演出助手は鏡へ台本を見せる。
「台詞どおりに動くなら、演出で制御できる」
蘭花が止めた。
「鏡の中の私へ代役を頼む気?」
「本体より時間を守るかもしれない」
「主演交代の話を怪異の前で進めないで」
全員が互いを押し出す。
「主演が残るべき」
「演出助手が原因を確認して」
「メイク係は顔に詳しい」
「衣装係は動きやすい靴を履いてる」
「なすりつけ合う前に全員逃げよう!」
廊下へ出ると、演出家が怒鳴った。
「開演五分前だ。何を」
蘭花は鏡を指す。
「中の私が先に笑って、逃げろと」
演出家は鏡の裏へ回り、電源コードを抜いた。
鏡はただのガラスになった。
劇場が導入した〈演技確認用スマートミラー〉で、数秒前の映像を自動再生し、表情を比較する機能が起動していた。先に笑ったように見えたのは、蘭花が稽古中に笑った映像。〈逃げて〉は、演目の台詞を口にしていた部分だった。
演出助手が尋ねる。
「なぜ遅れて再生を?」
演出家は説明書を見る。
「“客観的に自分を見るため”らしい」
蘭花は鏡へ向き直った。
「客観的に見た私が、逃げたがっていたのね」
その日の舞台で一番正確だったのは、三秒前の主演女優だった。