霧の温室
植物学者の百目鬼崇景が、密閉温室から消えた。
希少蘭の品評会前夜、百目鬼は苗の盗難を疑い、午後八時に一人で温室へ入った。庭師の野蒜由紀枝、出資者の埴科聡、助手の国東奈津は入口前に残った。温室は四方が透明な壁で、扉には電子錠、天窓は内側から届かない。
八時五分、害虫駆除の自動噴霧が始まり、内部は白い霧に満たされた。三分後に霧が晴れると、百目鬼は消えていた。入口の記録に開閉はなく、外から見える床にも人影はない。蘭の鉢だけが一つ倒れていた。
「壁は全部、強化ガラスです」と埴科は断言した。
私は壁を一周し、見た目ではなく三つの反応を調べた。
温室の西側には夜間保温用の黒い遮光幕が外側から掛けられ、入口に立つ三人から北西角は見えなかった。霧は室内だけでなく壁面にも水滴を作る。百目鬼が選んだ三分間は、透明な材質の違いを最も見抜きにくい時間だった。
第一に、北西角の一枚だけ、霧の結露が中央の縦線に沿って途切れ、床から肩の高さまで細い乾いた筋を作っていた。
第二に、その壁際の排水溝から、透明な樹脂製ファスナーの歯が一つ見つかった。
第三に、硬貨で軽く叩くと、ほかの壁は高く澄んだ音を返したのに、その一枚だけ布のような鈍い音がした。
野蒜が顔を伏せた。
「冬の保温用に、透明シートを張ることがあります」
「その一枚はガラスではなく、透明な厚手シートです。縁をガラス枠へ密着させ、中央に目立たないファスナーを設けた。霧が視界を奪った三分間、百目鬼さんはそこを開いて外へ出て、閉じ直した」
結露の切れ目はファスナーの防水帯、落ちた歯は開閉の痕跡、鈍い音は材質の違いだった。野蒜は苗を盗んだ出資者から百目鬼を守るため、工具小屋まで続く遮光幕の陰へ逃がしたという。
埴科は透明な壁を拳で叩いた。今度は、乾いた布音がした。
私は霧の残る床を示した。
「透明だから壁だと思った。見えていたのは向こう側ではなく、出口を壁に見せるための透明さだったんです」