青いマッチ

喫茶「灰皿」は、父の葬儀の日に閉店した。

海老名鳩子は夜まで残り、酒瓶を捨て、帳簿を束ね、壁の煙草の脂を拭いた。

父は店では愛想がよかった。常連には冗談を言い、誕生日にはケーキを焼いた。

家では、酔うと皿を投げた。

鳩子は十八歳で逃げた。八歳下の弟、颯汰を置いて。

レジの下から、青い紙箱のマッチが出てきた。

店名も広告もない。一本だけ、軸まで青い。

父は酔うと、その箱を振って言った。

「これは閉店後にしか使うな」

鳩子は脅し文句だと思い、一度も触れなかった。

鳩子は最後の照明を消した。

暗闇でマッチを擦る。

青い火が、指先ほどに燃えた。

壁へ影が伸びる。

父の丸い肩を待った。

酒瓶を振り上げる腕を待った。

けれど映ったのは、長い髪の女だった。

自分の影だった。

鳩子は笑いかけ、声が出なかった。

影は十八歳の夜のように、小さな鞄を抱えている。

父を許せないと思ってきた。

本当は、弟を置いて逃げた自分を、二十年ずっと責めていた。

颯汰は施設へ移り、成人してから一度だけ電話をくれた。

「姉ちゃんだけ逃げて、ずるい」

鳩子は謝れず、「あんたも逃げればよかった」と言った。

それきりだった。

青い火が指に近づく。

壁の影は、鞄を抱えたまま動かない。

十八歳の鳩子には、弟を連れていく金も、父に立ち向かう力もなかった。それでも自分だけ助かったことが、罪に思えた。

生き延びた人間は、いつから幸福になってよいのだろう。

火が消える前に、鳩子は影へ言った。

「怖かったね」

それは、誰からも言われなかった言葉だった。

母は早く亡くなり、教師は家庭の事情に踏み込まず、親戚は父にも良いところがあると言った。

十八歳の自分だけが、怖かったことを知っている。

「置いてきて、ごめん」

影の輪郭が揺れた。

「でも、逃げてくれてありがとう」

マッチが燃え尽き、店は暗くなった。

父を許せたわけではない。

弟への負い目が消えたわけでもない。

ただ、自分を罰し続けることが、颯汰への償いになるわけではないとわかった。

鳩子は店の電話をつないだ。

覚えている番号を押す。

五回鳴って、低い声が出た。

「もしもし」

「颯汰」

長い沈黙。

「店、閉めることにした」

「そう」

「灰皿、一つだけ残す。あんたが作った粘土のやつ」

電話の向こうで、息を吐く音がした。

「まだあったのか」

「取りに来る?」

「そのうち」

それだけで通話は終わった。

けれど「そのうち」は、二十年ぶりに未来を含んだ言葉だった。

翌朝、鳩子は青いマッチの灰を掃かなかった。

壁には何も映っていない。

それでも店を出る彼女の影は、一人分の形で、まっすぐ朝日に伸びていた。