駅前旅館の一〇三号室
夕食の鍋が煮立ったころ、望緒は予約票を食卓へ置いた。
〈駅前旅館 一〇三号室 一名〉。
母が白菜を取る手を止めた。
「何これ」
「今夜、そこに泊まる」
「部屋を用意したのに?」
父は黙って酒を注いだ。二階の子ども部屋には鍵がなく、父は消し忘れた照明や開いた窓を見つけるたび、返事を待たず入ってくる。昨夜も眠ったあとにカーテンを閉められた。
「昨日はここに泊まった。今日は旅館」
「たった二泊の帰省で、わざわざお金を払うなんて」
「二泊だから、二日目を楽にしたい」
母は鍋の火を弱めた。「家が嫌なら、もう帰ってこなくていいってこと?」
「夕飯は一緒に食べてる」
「寝るところまで家族でしょう」
「寝てるところは、私だけの場所にしたい」
父が杯を置いた。「俺が部屋に入ったことを言ってるのか。窓が開いてたから閉めただけだ」
「ノックして、返事がなければ入らないで。それができないなら別に泊まる」
「実の父親に向かって」
「実の娘にも、扉はあるよ」
鍋の蓋がかたかた鳴った。望緒は春菊を自分の椀へ取る。母は泣きそうな顔で、残った具を見つめていた。
「明日の朝ごはんは?」
「十時にここへ来る。食べたい」
「旅館で食べればいいじゃない」
「一緒に食べたいから来る。でも、泊まるのは別」
父は予約票を裏返した。破らなかった。
食後、母は残った肉を持たせようとした。望緒が断ると、小さなおにぎりを一つだけ包んだ。
玄関で靴を履くと、父が「旅館まで送る」と言った。
「歩いて行く」
「雨だぞ」
「傘を借りる。明日返す」
望緒は母から傘を受け取った。家に泊まらなくても、朝食の約束は残っている。
門を出る前、父が背後から『明日は何時に来る』と尋ねた。望緒が『九時半に旅館を出る』と答えると、父は『十時ならコーヒーを入れておく』と言った。送るとも迎えるとも言わなかった。望緒は振り返らず、『お願いします』と返し、借りた傘を自分で差した。
一〇三号室の鍵をフロントでもらったとき、望緒は初めて、その夜の扉を内側から自分で閉めた。