黄色い付箋の逃げ道
叶芽は、仕事を断る文面だけで一時間使う。フリーランスの翻訳者になって二年。納期が重なっていても、「せっかくお声がけいただいたのに」「力不足で恐縮ですが」と理由を重ね、最後には自分で逃げ道を塞いで引き受けてしまう。先月は三晩続けて眠れず、納品後の祝日に熱を出した。それでも依頼主から礼が届くと、必要とされた安心のほうを先に数えた。
机の周りには黄色い付箋が増えた。締切、修正、請求。端に一枚だけ、「断る理由」と書いたものがある。そこへ体調や先約を並べても、送信したことはなかった。
隣室のレイラはモロッコから来た服飾学生で、夜遅くまでミシンを踏んでいた。ある夕方、叶芽宛ての郵便を届けに来た彼女は、開いたドアの向こうの付箋を見つけた。
「断る文章は、何行あれば本当になりますか?」
「相手が納得するまで、ですかね」
「では、納得しない人には百行?」
叶芽が苦笑すると、レイラは黄色い付箋を一枚はがし、横線を一本だけ引いた。
「次の依頼を開く前に、一行で書く。理由は書かない。送るかは、そのあと決める」
その夜、新規メールが届いた。以前、二度も納期を前倒しした会社からだった。本文を開く前から、件名に「急ぎ」とある。未読の数字だけで肩が固くなり、叶芽は湯を沸かしたことも忘れた。台所で、空のやかんが乾いた音を立てていた。報酬は悪くない。今受ければ、週末が消える。
叶芽はメールを開かず、付箋に書いた。
〈今回は引き受けられません〉
たった一行は、冷たく見えた。愛想も事情もない。別の紙へ「現在ほかの案件が立て込んでおり」と書き足しかける。
壁の向こうで、ミシンが一度止まった。
叶芽は一行をメールへ移した。その前に「ご連絡ありがとうございます」を置き、後ろに「また機会がありましたら」を添える。けれど理由は入れなかった。
送信ボタンを押すと、付箋の「断る理由」という文字へ二本線を引いた。空いた黄色い紙を、明日の休みを示すように、予定表の日曜日へ貼った。