こぼれたラテの輪
莉子の肘がトレーに当たり、カフェラテが客の書類へ流れた。
白い泡が茶色い輪になり、印刷された文字をにじませる。客は立ち上がって紙を持ち上げた。
「これ、提出する資料なんですけど」
莉子は布巾を取り、同じ場所を何度も拭いた。紙は拭くほど毛羽立った。
店長が来て、コピー可能かを尋ねた。データがあると分かり、近くのコンビニで印刷費を店が負担することになった。客には新しい飲み物とクリーニング券を渡す。莉子は頭を下げたが、客はまだ怒っていた。当然だと思った。
カウンターへ戻ると、注文待ちが五組いた。
失敗したあとの莉子は、誰より明るく振る舞う。「大丈夫です」と先回りして言い、休憩を断り、閉店まで笑顔を貼る。平気な顔で働けない自分には、接客の資格がないと思っていた。
次のカップを持つ手が震え、ミルクが縁からこぼれた。
莉子は布巾を握ったまま、店長に言った。
「五分だけ、裏に下がります。今のままだと、またこぼします」
口にした瞬間、逃げたような恥ずかしさが上がってきた。
店長はレジへ入り、「五分後に戻って」と答えた。
励ましはなかった。列も消えなかった。莉子の代わりに同僚の作業が一つ増えた。
バックヤードで、莉子は椅子に座った。
表ではミルを挽く音が続き、五分のあいだにも注文は増えている。自分がいなくても店が動く音は、安心より先に悔しさを連れてきた。それでも莉子は立ち上がらなかった。
エプロンの胸元にラテのしみがある。いつもなら、しみをこすりながら「ばか」と小声で繰り返す。今日は濡れた布を当てるだけにした。呼吸を五回数え、水を飲む。
五分後、客の書類は新しく印刷され、濡れた紙は透明袋に入っていた。客はまだ不機嫌そうに店を出た。莉子は追いかけてもう一度謝りたい衝動を抑えた。必要な謝罪と対応は、すでにした。
カウンターへ戻り、次の注文を聞く。
「ホットコーヒーを一つ」
カップを持つ手は、まだ少し震えていた。莉子は両手で置き、急いで隠さなかった。
エプロンには薄い輪が残ったまま、勤務は続いた。