ひとつ前の履歴

乗換案内アプリの開発者、香月叶人は、利用者から届いた不具合報告を調べていた。

《深夜、前生駅という存在しない駅が経路に入る。そこでは一つ前の駅を検索してはいけない。検索すると、自分の一つ前が表示される》

冗談として処理するには、同じ報告が多すぎた。

叶人は検証端末を持って終電に乗った。午前零時三十二分、アプリの現在地が「前生駅」に変わり、列車も暗いホームへ停車した。

駅名標の左右は空白。戻る方向すら分からない。ホームの広告枠には、知らない家族と食卓を囲む叶人の写真が年代順に貼られていた。

叶人は規則を思い出したが、経路が分からなければ帰れない。アプリの「一つ前」を一度だけ押した。

画面に駅名ではなく、病院名が出た。

《一つ前:香月産婦人科 1998年4月12日》

叶人の生まれた場所と日付だった。さらに画面が自動でスクロールする。

《その一つ前:利用者不明

 1981年9月3日 前生駅で行方不明》

古い新聞記事の写真が開いた。失踪した二十二歳の男は、叶人とよく似ていた。名前だけが黒く塗られている。

到着した列車へ乗ると、叶人は普段の路線へ戻れた。

翌朝、アプリのテストアカウント名が変わっていた。叶人の名ではなく、黒塗りだった男の名前になっている。顔写真も少しずつ別人へ変わり始めた。

家族のグループチャットを開く。過去の写真から叶人だけが消え、代わりに見知らぬ青年が家族旅行に写っていた。

母からメッセージが来た。

《このグループに、誰が香月叶人さんを招待したの?》

叶人は「俺だよ」と返した。

《うちに叶人という子はいません》

その瞬間、乗換案内アプリが更新された。

《前の利用者からアカウントを引き継ぎました》

プロフィール欄の生年月日が、一九五九年へ変わる。現在地履歴には、四十五年間ずっと前生駅にいたことになっていた。

最後に、アプリが普段どおり経路を提案した。

《自宅まで 徒歩0分》

叶人が顔を上げると、朝の自室ではなく、前生駅のベンチに座っていた。隣には彼のスマホを持つ見知らぬ青年がいて、家族チャットへ「ただいま」と送っていた。