インクのにじんだ招待状

土曜の午後二時、胡桃は新品の筆ペンを開けた。

千景から届いた結婚式の招待状へ返事を書くためだった。動画で確認したとおり、〈ご出席〉の「ご」を二本線で消し、敬称も直す。机には練習に使ったメモ紙が五枚並んでいた。

胡桃は字に自信がない。仕事の伝言も、できるだけ社内チャットで済ませる。千景は学生時代、胡桃のノートを「暗号みたい」と笑ったことがある。悪意はなかったが、それ以来、人へ渡す文字ほど丁寧に書こうとする癖がついた。

最初の線はうまく引けた。住所もゆっくり書いた。だが名前の最後で、筆先からインクが多く出た。黒い点が広がり、胡桃の「桃」の右下へ小さくにじんだ。

息が止まった。

予備のはがきはない。修正液は失礼だと検索に書いてある。新しい招待状を送ってもらうほどではない。それでも、この一枚が結婚式まで残ると思うと、ひどく恥ずかしかった。

千景から結婚の電話を受けた夜も、胡桃はきちんとした言葉を探しすぎて、最初に「そうなんだ」としか言えなかった。あとから何度も、もっと喜べばよかったと考えた。

机の端には、食べかけのあんパンがある。昼食にするつもりが、返信の練習で一時間近く放置し、表面が乾いていた。

胡桃はにじみを指で触りかけ、やめた。乾く前に触れば、もっと広がる。

メッセージ欄には、筆ペンではなく普段使う細いボールペンで書いた。

〈呼んでくれてありがとう。当日、千景の笑う顔を見られるのを楽しみにしています〉

字は少し傾いた。行の終わりも揃わなかった。だが、電話のときに言えなかったことは書けた。

胡桃ははがきを窓辺に置き、インクが乾くあいだ、あんパンを食べた。表面は乾いていても、中の餡はまだやわらかい。

十分後、にじみはそれ以上広がっていなかった。失敗ではなく、ただ黒い跡になっていた。

胡桃は招待状を封筒へ戻し、夕方に投函すると決めた。友人の大切な日に向ける言葉が、見本どおりの字でなくてもいい。読める。届く。それで今の胡桃には充分だった。