クリーンルームの姓
城戸谷奏悟は、半導体工場のクリーンルームで装置を調整していた。
婚約者の桜小路美晴音は、白い防塵服を「顔も肩書も見えない仕事」と嫌った。
そして、投資会社の鏑木森凰介へ乗り換えた。
「凰介さんは次世代工場へ何百億も投資する側よ。奏悟は装置のねじを締める側でしょう」
凰介は工場見学用の来賓証を見せた。
「優秀な現場社員なら、新工場でも雇ってあげられるよ」
奏悟は婚約解消書へ署名した。
「その来賓証、明日の発表会まで使えるといいね」
翌日、国内最大級の新工場建設が発表された。世界各国の電子機器メーカーが長期供給契約へ署名し、事業規模は二兆円。
プロジェクト代表として登壇したのは奏悟だった。
城戸谷家は半導体材料会社の創業家で、奏悟は株式の筆頭保有者。さらに消費電力を半減させる製造装置の設計者でもあった。現場でねじを締めていたのは、数ナノメートルのずれを自分の手で確かめるためだった。創業家の名で特別扱いされないよう、入社時から一般採用の技術者として評価を受けていた。昇格試験も一度も免除されていない。
美晴音は息をのむ。
凰介は投資責任者を名乗った。
「この計画は僕のファンドが資金を出します」
壇上の銀行代表が否定した。
凰介は投資会社の営業契約社員で、投資決定権を持っていなかった。奏悟の新工場計画を美晴音へ漏らし、自分の案件として出資金を集めようとしたため、契約解除と調査が決まっていた。
凰介の来賓証はその場で無効になった。
美晴音は奏悟へ駆け寄る。
「あなたが創業家なら、私たちの結婚は会社にも良いはずよ」
「防塵服の中の僕には、価値がなかったのでしょう?」
奏悟が起動ボタンを押すと、巨大画面へ最初の試験ウエハーが映った。歩留まりは世界最高値。契約先各社から拍手が起きる。
二兆円の供給契約が確定し、凰介の投資募集ページが閉鎖された瞬間、美晴音が見えないと切り捨てた姓は世界中の製品へ刻まれ、選んだ“投資家”には一円の決定権も残っていなかった。