トマトの種を数えない
荻窪朝生は、オーディションの録音データを十二回削除した。
午前二時。防音室代わりの納戸から出るたび、同居人が温め直したトマトスープを机へ戻してくれた。何も聞かず、自分は食べない。
朝生は歌う前に、数を数える。
息を八拍。指を四回。譜面の角を三度そろえる。数字どおりに進めば、声が震えない気がした。
子どもの頃からそうだった。発表会の前には階段を十六段で上がり、舞台袖で床の傷を五本探した。うまく歌えた日は規則が正しかったことにし、失敗した日は数え方が足りなかったことにした。
けれど昼の最終審査では、審査員の顔を見た瞬間に数が飛んだ。一音目が裏返り、途中で止められた。帰宅後、「もう一度だけ動画で提出してよい」と連絡が来たのに、十二回とも完璧を待って削除した。
提出期限は午前三時だった。残り一時間を切るほど、次こそ正しく数えなければという気持ちが強くなる。失敗を恐れて録り直すたび、歌える時間のほうが減っていった。
器の中央には、煮崩していない小さなトマトが一個だけ浮いていた。酸っぱい香りが上がり、口へ入れると種がぷつりとはじける。
朝生はトマトをスプーンへ載せ、皮の裂け目を見つめた。
いつもなら種を数える。奇数なら録り直し、偶数なら送る。そんな規則を誰にも言わず、失敗の責任を数字へ預けてきた。
同居人はスマートフォン用の小さな台を納戸の前へ置いた。それだけして、寝室へ戻る。励ましの言葉で、十三回目の規則を増やさないために。
朝生はトマトを丸ごと口へ入れた。
種がいくつあったのか分からない。舌の上で酸味が広がり、数える前に喉を通った。残りのスープも飲み、最後の一口だけを器へ置いて納戸へ戻る。
録音は一回。
息が少し揺れた。高音の前で、椅子がきしんだ。最後の音は予定より短かった。それでも朝生は再生しなかった。
送信ボタンを押してから、机へ戻る。
残した一口は冷め始めていた。朝生はそれを飲み切り、空の器をスマートフォンの隣へ置いた。通知には「提出完了」とある。
合否は変えられない。震えた声も消えない。
けれど今夜の録音には、種の数に許可をもらわず歌い切った朝生が、最初から最後まで残っていた。