ベランダの避難はしご
葉月は高いところが苦手だ。妹の芽衣は、怖いものは見ておいたほうが怖くなくなると言う。二人の部屋は五階で、ベランダの床には『避難はしご』と書かれた四角い蓋があった。
入居して半年、葉月はその蓋を避けて洗濯物を干していた。芽衣はときどき上に座って夜景を見た。葉月には信じられない。
ある日、管理会社から避難設備点検のお知らせが来た。立ち会いが必要。葉月は会社を休めず、芽衣に頼もうとした。芽衣はその日、資格講座の初日だった。
「別の日にしてもらう」
葉月が言うと、芽衣は首を振った。
「逃げ道の点検を後回しにするの、怖くない?」
「怖いから後回しにしたい」
「私は怖いから先に見る」
言葉は平行線だった。結局、葉月が在宅勤務に切り替え、芽衣は講座をオンラインにした。二人とも少しずつ予定を曲げたが、理由は違った。
点検員が蓋を開けると、金属のはしごが暗い穴の中に折り畳まれていた。葉月は一歩下がった。芽衣は覗き込みすぎて、点検員に注意された。
「実際に下ろしてみますか」
そう言われ、葉月は固まった。芽衣が手を伸ばしたが、途中で止める。
「一人でやると、姉ちゃん二度と見ないでしょ」
葉月はむっとした。図星だった。二人で蓋の金具を持ち、ゆっくり開いた。はしごの重みが手首にかかる。下の階のベランダまで、金属音が降りていった。
「重い」
葉月が言うと、芽衣も「重い」と言った。怖さの種類は違うのに、重さは同じだった。
点検後、蓋を閉めると、ベランダはいつもの狭さに戻った。夜、葉月は避難はしごの上に洗濯かごを置かなかった。芽衣もそこに座らなかった。二人は同じ四角を空けたまま、別々のマグカップで麦茶を飲んだ。
次の休日、葉月は避難経路の紙を冷蔵庫に貼った。芽衣は赤ペンでコンビニの位置を書き足した。「逃げる途中で買い物しないで」と葉月は言い、「水がなかったら困る」と芽衣は返した。言い合いながらも、紙の上に同じ磁石を二つ重ねた。
避けるためではなく、使えるように空けた場所だった。