ペア割を断らない
佐和子は、社交ダンス教室の体験招待状を封筒のまま一か月持ち歩いた。
駅前で配られていたものだ。〈初心者歓迎・ペア参加なら半額〉と大きく書かれ、その下に小さく〈お一人参加は当日組み合わせます〉とある。
踊ってみたい気持ちはあった。動画で見たワルツの三拍子を、台所で一人まねしたこともある。けれど一人で受付に立ち、「相手がいません」と申告する場面を想像すると、足が止まった。
招待状には、二人で笑う男女の写真が使われていた。佐和子はその中央で紙を折り、二人を別々にしてから、また開いた。
二十九歳。恋人なし。ダンスの一時間まで、独身であることを名札のようにつけなくてはいけないのか。
締切当日、教室へ電話した。
「一人参加って、浮きますか」
受付の人は笑わず、「毎回半分くらいがお一人です」と答えた。「固定の相手ではなく、一曲ごとに交代します」
一曲ごと。
その短さに、佐和子は救われた。未来を約束しない相手と、三分だけ歩幅を合わせる。それならやってみたいと思った。
申込フォームには二つの欄があった。
〈ペア参加〉
〈当日マッチング〉
佐和子は二つ目に印をつけた。半額にはならない。誰かを誘えば安くなるのに、正規料金を払うことが少し悔しい。
体験当日、最初の相手は年上の女性だった。次は無口な男性、その次は同い年くらいの女性。佐和子は三人目の足を踏み、「すみません」と笑った。
最後の曲で組んだ相手に、「一人で来るの、勇気いりました?」と聞かれた。
佐和子は「はい」と答えた。格好をつけずに言うと、相手も「私もです」と笑った。
教室の帰り、継続申込書を渡された。月四回、毎回相手は変わる。佐和子は駅のベンチで署名した。
ここで恋が始まる保証はない。むしろ何も始まらず、ただ足を踏み続ける可能性のほうが高い。それでも、一人でいる不安から誰かを固定するのではなく、必要な三分だけ他人に手を差し出す練習を選んだ。
ペア割は使えない。その差額も、次の曲でまた一人になることも、佐和子は自分の会費として払うことにした。