一円買収を拒む
会議机の中央に、銀色の一円玉が置かれた。
「形式だけです。研究部門を一円で移し、負債を本体に残す。これしか会社を救う方法はありません」
財務責任者の蔵前が、譲渡契約書を神崎依央へ差し出す。
創薬会社《アステラ》の代表だった依央は、一度、その一円に署名した。研究資産は蔵前の用意した会社へ移り、助成金の入金口座まで変更された。残されたアステラは借入金だけを抱え、翌日破綻。蔵前は新会社の社長として特許を売却し、依央の研究員たちは一人も雇わなかった。
研究所の明かりが消えた夜から、依央は契約締結の朝へ戻っている。窓の外では、夜通しの培養を終えた研究員たちが結果を待っていた。
蔵前が一円玉を指で弾く。
「形式だけです。先生は科学だけ考えていればいい」
依央は契約書を閉じた。
「形式だからこそ、拒否します」
「今日中に現金が入らなければ給与が払えません」
「この譲渡先、設立日は三日前。代表者はあなたの義弟。助成金口座の変更申請者もあなたですね」
蔵前の指が止まる。
前回の依央は研究しか見ていなかった。今回は目覚めてすぐ、全口座と登記を確認した。さらに、共同研究契約の条項も読み直した。特許を第三者へ移そうとすれば、未払い研究費六千万円が自動的にエスクローから支払われる。
依央は譲渡契約へ署名せず、正規の共同研究先へ資産移転の企図を通知した。
蔵前が立ち上がる。
「そんなことをすれば私が困る!」
「会社を救う話で、最初に出る言葉がそれなのね」
午前九時半。前の人生では研究所の口座残高がゼロになった時刻。
会計画面が更新される。
《共同研究費六千万円――入金完了》
同時に、蔵前が予約した全資金移動は「権限停止」で赤く弾かれた。
研究室から拍手が聞こえたわけではない。誰も、まだ何が起きたか知らない。ただ、給与支払予定の欄に緑のチェックが並んだ。
依央は一円玉を拾い、研究所の自動販売機の募金箱へ入れた。
その直後、主任研究員から内線が入る。
「代表、試験結果が出ました。次の段階へ進めます」