七味の輪
朝倉伊織は、評価面談のあとから退職サイトを開いたままにしていた。
今期の評価は「期待どおり」。新しい担当を二つ引き受け、月の残業は四十時間を超えた。新人の質問にも答え、遅れた案件を立て直した。自分では、少なくとも前年より前へ進んだつもりだった。それでも上司は、「頑張りは見ているが、決め手に欠ける」と言った。何が決め手なのか尋ねると、「自分で考えて」と返された。
伊織は会社を出る前、退職理由の欄へ「正当に評価されないため」と書いた。送れば少しだけ胸が晴れる気がした。
駅へ向かう途中の居酒屋に入り、根菜のけんちん汁を頼んだ。店内に客は伊織だけだった。
椀から白い湯気が上がり、ごま油と出汁の匂いが鼻へ届いた。大根やごぼうを箸で動かすと、器の内側でこつりと触れ合う。店主が七味の筒を置き、伊織は勢いよく振った。
赤い粉が汁の上へ輪になって落ちた。
「入れすぎた」
「戻せませんね」
店主は新しい椀を出そうとはしなかった。
伊織は辛くなった汁を少しずつ飲んだ。腹立ちのまま送る退職理由も、たぶん戻せない。辞めること自体が間違いとは思わない。むしろ、このまま曖昧な評価を受け続けるほうが怖い。ただ、辞めた瞬間の爽快さだけで、その先の生活まで決めたくなかった。ただ、何から逃げ、何を選ぶのかを、上司の曖昧な言葉だけに決めさせたくなかった。
明日、評価基準と自分に足りない成果を文書で確認する。同時に、会社の外のキャリア相談を予約し、求人を三件だけ見る。答えが具体的なら残る条件を考え、また曖昧なら転職活動を始める。
評価が上がる保証はない。別の会社が今より良いとも限らない。残業は来週も続く。具体的な答えを求めたことで、上司に面倒な部下と思われる可能性もある。それでも、曖昧さを自分の能力不足として飲み込み続けるよりはいい。
伊織は退職フォームを閉じ、予約画面を開いた。汁の底に沈んだ七味は最後まで辛かったが、柔らかく煮えた大根の熱が、その刺激を少しだけ丸くした。椀を置いても、唇には細い火が残っていた。