三十歩目のスタジオ
岡崎茉由は、駅から家まで最短の道しか歩かなかった。信号を二つ、コンビニを一つ、薬局を右。十二分で着く。寄り道をすると、夕食も入浴も睡眠もずれる。ずれた翌日は、自分の管理が足りない気がした。
大学では踊っていた。就職してからも何度かスタジオを検索したが、体重が増えたこと、初心者に戻ること、鏡の前に立つことを考えて、予約画面を閉じた。
最後に踊った発表会で、衣装係から「もう少し絞れたらきれい」と言われた。悪意のない声だったから、忘れたふりをしやすかった。鏡に映る自分より、その一言を見てしまうようになり、音楽を聴いても体を動かさなくなった。
夏の終わり、薬局の角にある街灯が、まだ空の明るいうちから点いた。丸い灯りの下で、茉由の影が細長く伸びる。
影が、本人より先に左へ曲がった。
茉由は立ち止まる。体は正面を向いているのに、影の腕だけが脇道を指していた。街灯が低く唸る。
「影が先に行く道を、三十歩」
「誰?」
「三十歩だけ」
それ以上は答えない。茉由は薬局側へ戻ろうとしたが、影は地面に貼りついたまま動かなかった。
仕方なく左へ曲がる。一、二、と数える。最初の五歩はばかばかしく、十歩を越えると帰り道が少し遠のいた。十五歩目で、イヤホンを外した。誰かの選曲ではない音が、路地の奥から拍子を刻んでいた。古いクリーニング店、植木鉢、地下へ下りる階段。二十八歩目で音楽が聞こえ、三十歩目に小さなダンススタジオの入口があった。
ガラス扉には〈本日体験可・予約不要〉。中では年齢も体形も違う人たちが、振りを間違えて笑っている。鏡は大きいが、誰も鏡だけを見ていなかった。
スマートフォンの予定表には〈作り置き〉とある。今から入れば、予定は崩れる。夕食は買うことになるし、寝る時間も少し遅くなる。
茉由の影は、入口の灯りの中では足元へ短く戻っていた。もう案内しないらしい。
扉に手をかける。中の女性が気づいて、受付を指した。茉由は反射的に「見学だけ」と言いかけた。
口を閉じ、靴を脱ぐ。
「体験、まだ入れますか」
そう尋ねながら、茉由は片足をスタジオの床へ置いた。