三百番の食券

十一時五十五分。篠笛瑛太は、三百番と印字された赤い食券をカウンターへ置いた。

亡父の遺言は奇妙だった。正午までに最後の一杯へ隠した材料を当てれば、ラーメン店と秘伝のレシピを相続できる。外せば店は売却され、四十年の暖簾は下ろされる。

叔母が麺を上げながら聞く。

「硬さは?」

「普通で」

湯気の向こうに醤油の香り。瑛太は一口すすり、「干し貝柱」と答えた。厨房タイマーが鳴る。

十一時五十五分。赤い食券がまた手の中にあった。

二周目は焦がし葱。三周目は鴨脂。四周目は山椒の若芽。外すたび、丼は空になる前に戻り、叔母の問いだけが同じ温度で繰り返された。

「硬さは?」

五周目からは差分を記録した。香り、塩分、舌に残る甘み。父の帳面にあった百八種類を潰し、十一周目には候補を一つまで絞った。

角砂糖の欠片、〇・二グラム。

父は昔、子どもの瑛太が苦いと言ったスープへ、見えないほどの砂糖を入れた。それ以来、毎日同じ量を落としていた。答えは技術ではなく、父が息子の舌へ合わせた癖だった。

十二周目。瑛太は「砂糖」と言えば勝てるところまで来た。店を継げる。借金も厨房も常連も、その一言で残る。

叔母がまた聞く。

「硬さは?」

瑛太は赤い食券を見た。三百番は、父が最後に仕込んだ一杯の番号ではない。瑛太が幼い頃、初めて完食した日の券番号だった。

父は味を当てさせたいのではなく、同じ味を守らせたかったのだ。瑛太が別の店で修業して考えた新しいスープを、父は最後まで一口も飲まなかった。その拒絶まで、暖簾の味として受け継げという試験だった。

十三周目。瑛太は答えなかった。

遺言書のレシピ欄を破り、赤い食券と一緒に寸胴の火へ入れる。

「店は継がない。この味を正解にしたまま、生きたくない」

叔母は何も言わず、火を止めた。

正午。売却手続きが自動で始まり、時計は十二時一分へ進む。暖簾も、厨房も、父の椅子も失う。

瑛太は最後の一口をすすった。砂糖の甘さを確かめても、答えは口にしなかった。冷めていく丼の底に、三百番の赤だけが、短く燃えて消えた。