下校放送のあとで
土岐碧生は、下校放送が終わっても席を立たない杉浦実花に気づいた。
教室の鍵を職員室へ返す係なので、待つしかない。急かすこともできたが、実花の机の上には開かれていない教科書と、握りしめたままのハンカチがあった。帰る支度をしている人の形ではなかった。
「帰らないの」
「もう少し」
「鍵、閉めるんだけど」
「先に返していいよ」
「閉じ込めて?」
「それでもいい」
冗談に聞こえなかった。
窓の外は夕暮れで、校庭から人影が消えていく。実花の机には、誰かが彫った小さな家と、その下に「避難所」と書かれていた。
碧生は隣の席へ座った。
「ここ、災害時の指定場所?」
「たぶん」
「備蓄は?」
「飴が二個」
実花は鞄から飴を出し、一つを渡した。二人で包みを開く音が、教室に妙に大きく響く。
「家、帰りたくない?」
碧生は聞いてから、直球すぎたと思った。実花は怒らず、窓を見た。
「昨日から、親がずっと喧嘩してる。帰ると静かになるの。私がいるから」
「それ、いいことじゃない?」
「静かなだけ。終わってない」
碧生には解決策がない。自分の家なら、夕食の献立を聞くだけで会話が終わる。その普通を差し出しても、慰めにはならない。「気にするな」も「仲直りするよ」も、無責任だった。だから机の家へ、鉛筆で煙突を足した。
「避難所、暖房完備」
「落書き増やした」
「非常時だから」
実花が小さく笑い、窓を二つ描いた。碧生は屋根にアンテナ、実花は庭に犬、碧生は犬用の小屋。話は次第に家と関係なくなった。夕食はカレーか、布団は何枚か、宿題を持ち込めるか。二人で理想の避難所を机の端へ広げた。
外が暗くなり、実花はようやく鞄を持った。
「帰る」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないけど、飴なくなったから」
碧生は鍵を閉めた。廊下を歩きながら言う。
「明日も避難所、空いてる」
「鍵係がいる時間だけ?」
「延長申請できる」
実花はうなずいた。
翌朝、机の家は誰かに半分消されていた。それでも「避難所」の文字と、二つの窓だけは残っていた。実花は何も言わず、碧生の机に飴を一つ置いた。