二本の鍵
斑目冴が会計事務所を辞めると決めたのは、顧客企業の架空経費を見つけた翌日だった。
桐谷真名は退職に反対した。証拠を整え、所内で是正すればいい。二十人の職場で一人が声を上げて辞めれば、残る人間が疑われる。
冴は、所長がその顧客と二十年来の付き合いだと知っていた。真名は、それでも手順を踏まず外へ持ち出せば、守るべき顧客資料まで傷つくと言った。
二人は正しさではなく、壊したくないものが違った。
退職面談の前夜、冴は倉庫で原本領収書を確認した。同じ筆跡、連番のない伝票、休業日の接待費。コピーを取ろうとすると、真名が入ってきた。
「持ち出すつもり?」
「消される前に残す」
「勝手にコピーしたら、あなたのほうが不利になる」
「何もしなければ、明日にはないかもしれない」
真名は扉を閉め、二重鍵の書庫を指した。重要資料を一時保全するための棚で、開閉には担当者二人の鍵が必要だった。通常は訴訟案件にしか使わない。
「保全申請を出す。理由は監査上の疑義」
「所長が却下する」
「却下した記録も残る」
冴はすぐにはうなずかなかった。内部手続きに期待していない。真名も、冴の告発を全面的に支持したわけではない。それでも原本を所長の机へ戻す選択だけは、二人ともしなかった。
冴が領収書を日付順に並べ、真名が一点ずつ撮影記録を取った。コピーは封筒へ入れ、外部持出禁止の印を押す。保全申請には冴が発見者として、真名が確認者として署名した。
所長から「明日にしろ」と電話が来た。真名は「原本保全だけ今夜行います」と答えた。冴は横で、通話時刻を記録した。
書庫の前に立つ。冴の鍵は右、真名の鍵は左だった。片方だけ回しても開かない。
「私は辞める」
「私は残る」
「所長を信じてる?」
「手続きを信じたい。だから、破られた証拠も残す」
冴は理解したふりをしなかった。真名も引き留める言葉を飲み込んだ。
二人は合図をせず、ほぼ同時に鍵を回した。金属音が重なり、領収書を入れた棚が閉じた。