亡霊船長の湯気茶
霧港の食堂《陸灯》は、船が出ない夜だけ開く。店主マオが灯をともすと、迷った水夫が岸を見つけられるからだ。
百年に一度の濃霧の夜、扉をすり抜けて一人の男が入った。古い軍服、濡れない髪、床に映らない足。亡霊船《黒帆号》の船長ネレウスだった。
彼の船が沖に現れるたび、霧が港を塞ぎ、生きた船まで出られなくなる。亡霊船は錨を上げられない。船長が死ぬ前、「次に陸へ戻ったら、温かい茶を一杯飲む」と約束したのに、それを果たしていないからだという。
「百年、何度も店へ入った。だが杯を持てぬ。液体は喉を抜ける」
ネレウスが手を伸ばすと、卓も器も指を透かした。
マオは茶葉を濃く煮出さず、香りの強い灯柑の皮を一片入れた。《湯気茶》は飲むためではなく、立ちのぼるものを味わう茶だ。蓋の細い穴から、白い湯気が一本だけ伸びる。
「顔を近づけて、息を吸ってください」
亡霊に息などない、と船長は笑った。それでも椀の上へ身をかがめる。湯気が鼻先を通り、半透明の胸へ入った。
灯柑の香りが広がった瞬間、彼の軍服から海水が一滴だけ落ちた。
二度目の湯気を吸うと、白かった頬にわずかな色が差す。三度目、ネレウスは両手で存在しない杯を包むような形を作った。
「熱い」
驚きと懐かしさが混じった声だった。
「本当に?」
「冬の見張りのあと、指を火傷しそうになった茶と同じだ」
液体は飲めなくても、温かさは亡霊の中へ残った。ネレウスは椅子へ深く座り、湯気が消えるまで一言も話さない。最後の白い筋を吸い込むと、胸の軍章が静かに光った。
沖から、巨大な鎖の上がる音が響く。
「約束は果たした」
船長の輪郭が薄くなる。彼は帽子を取り、マオへ礼をした。
「代金を置けぬのが心残りだ」
姿が消えたあと、椀の下から古い銀貨が一枚現れた。百年前の港税印が刻まれている。
窓の外で霧が二つに割れ、《黒帆号》は朝焼けの向こうへ帆を張った。港の出航鐘が一斉に鳴る。
マオが銀貨を灯へかざすと、食堂の鈴も鳴った。扉の外には、霧の切れた海を見つめながら、温かいものを求める足音が止まっていた。