介護休業承認
井手口冴映の夫・啓之は、何でも母に先に相談した。
旅行も、家の購入も、冴映の転職も。
「母さんが心配するから」
その一言で、冴映の予定は何度も変えられた。海外研修を断ったときも、母の誕生日を理由にされた。啓之の昇進だけは、夫婦の最優先事項だった。
義父の宣一が倒れ、片麻痺が残ると、義母の絹枝は当然のように言った。
「冴映さん、会社は辞めなさい。啓之はこれから大事な時期だから」
啓之も母の隣でうなずいた。
「君の仕事はまた探せる。父さんは今しか支えられない」
冴映は退職届ではなく、封筒を二つ置いた。
一つは別居通知。もう一つは、啓之の会社が家族介護者向けに用意している制度一覧だった。介護休業、短時間勤務、在宅勤務、残業免除。啓之は制度を知りながら、一週間前、人事部へ「妻が辞める予定なので利用しない」とメールしていた。
「私の人生を提出書類の余白にしないで」
絹枝が声を尖らせる。
「息子の出世を潰す気?」
「潰すかどうかを決めるのは、息子さんです。私は介護者になりません」
啓之は冴映を廊下へ追い、低い声で頼んだ。
「形だけでも同意してくれ。会社には後で何とか言う」
そのとき、啓之の携帯に人事部から着信した。
宣一の入院を知った上司が、本人との面談を求めていた。電話口で啓之は何度も「妻が」と言いかけたが、冴映は首を振った。やがて、人事担当者が制度利用の意思を確認する。
家へ戻れば、母の視線。目の前には、すでに荷物をまとめた妻。
啓之はようやく答えた。
「僕が介護休業を取ります」
人事担当者は、以前提出されていた仮申請を正式申請へ切り替えた。期間は三か月、その後は短時間勤務。開始日は宣一の退院日だった。
通話が終わるより先に、承認メールが届く。
《介護休業取得者 井手口啓之》
絹枝は、初めて息子の仕事より自分の介護を優先させた結果を、黙って見つめた。